レビュー 『デビルサマナー 葛葉ライドウ 対 アバドン王』

フランスの哲学者リオタールは「大きな物語の終焉」とポストモダンを表現した。


あらゆるモダン(近代)文化における活動は、
あくまで既存価値観・規範をもとに「反抗」「破壊」するものであった。
それまで無価値として扱われていたものを有価値に転換する。
あるいは有価値と思われていたものを扱き下ろす。
モダンにおいては様々な価値観が入り乱れるが、確かに人々は同じものを見て「同じ世界」を生きていた。
価値観をめぐって闘争し、新たな規範を手に入れようとする。
ただひたすらにどこかにあるであろう真を探し求めるのではなく、真を自らの手で勝ち取ろうとする。
各々は己の眼にしたがって世界を見、そして己の信条にしたがって世界を変えようとする。
すでに確固とした世界が存在するのではなく、人と人とが衝突しあいながら世界を紡ぎだす。
己の見方によって世界はいかようにもそのカタチを変える。
世界ありきではなく、人が生きていた時代。


ポストモダン(後期近代)は「反抗」「破壊」といった行為を許さない。
いや、そのような行為自体が不可能に近いというべきか。
同じものを見て「同じ世界」を生きる時代から、違うものを見て「それぞれの世界」を生きる時代への転換。
同じ眼を持つ者、同じ信条を持つもので寄り集まり、世界は一極化と同時に細分化された。
眼が違うなら、信条が違うなら、「排除」すればいい。
ここには「排除するならば、排除されるかもしれない」という覚悟とリスクを課した闘争は無い。
抗わないなら、従うのみ。
従うならば、抗わない。
各々がそれぞれの世界に「所属」し、その世界の中で一生を終える。
「闘争」運動も己の所属する世界内にとどまり、所属しなくなったとたんに無関連化してしまう。
それぞれの小さな世界は交わることなく並存し、横断的で大きな変革は発生しない。
世界を変えるのではなく、最適化された世界へ移住する。
人ではなく、世界ありきの時代。


小さな世界は、大きな世界を構成する一細胞となり、巨大な生態系を創りあげる。
だが、その一細胞すら代謝されない巨大な生態系は、緩やかに死へ向かうのみである。

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・世界・時代設定。
大正という年号は短いものであったが、しかし、明治時代における西洋文化到来を日本のものとする咀嚼期間として必要不可欠な時代であった。
西洋でも東洋でもない、大正というロマン文化。
それぞれの個人が自らの方向性を模索すると同時に、世界もその方向性を模索する時代。
この時代設定だけでいくらでもストーリーがつくれるだろう。
「生きること」を真正面から主題とするアトラス的ストーリーと大正時代の相性が抜群にイイ。
スターウォーズが未来設定でないことと同様に、現代という時代設定では古臭く感じられてしまう物語も、過去という時代設定によって郷愁や憧れをもって物語に接することができる。
都市と田舎、共同体といった題材に説得力や強度を持たせるためにもこの時代設定は不可欠だ。
裏を返せばこの時代でなければ描けない題材といってもいいだろう。
現実と地続きでない完全別世界のファンタジーは「なんでもアリじゃん。」と思って醒めてしまう自分のような人でも、このような「ありえたかもしれない世界・時代」は拒否反応どころかワクテカさせる。
どうも私は人間と妖怪・悪魔・異形のものが同居している世界観に弱いらしい。



・人物描写
和装・洋装が組み合わされ、モボ・モガといわれる洒落者たちが闊歩している都市部。
その一方、独自の規範と慣習が色濃く残る地方部。
共同体存続のために己を犠牲にすることへの迷い、迷える者を身内に抱えるものの苦悩、救うべき共同体構成員への疑念。
「よそ者」を拒む村人の描写が後々になってストーリーにとてもよく活かされている。
根拠無く既存の価値観に寄りかかり、都合のいいときだけ利用しておいて、その価値観によって問題が起こるとその長に全責任をなすりつける。
こんな自分の生に「責任」すら取れない足の引っ張り合いだけをする田舎者根性丸出しの人々を、はたして救う価値があるのか。
そして、既存の慣習を頑なに受け入れ、自分を犠牲にして村人を助けようとする茜をどう捉えるか。
また、この茜の判断によって、弾は力を得ることで「先人」の上に立ち、彼女を救おうとする。
この弾の判断と責任をどう考えるか。


・主題設定
キーワードは「運」「希望と絶望」「きっかけ」だ。
ツイてるツイてないという「運」の対義語を「努力」として単純化していないのところに好感が持てる。
確かに運によって道が拓けることはあるだろう、だがそれは一瞬の出来事だ。
移ろいやすく脆いからこそ、運。
行き過ぎた運は反動を起こし、運を操作しようとする者は破滅を招く。
運に頼らないことを通して描くことによって、暗にスピリチュアル批判にもなっている。


己の希望によって、他者に絶望をもたらすとしたら。
己の絶望によって、他者に希望をもたらすとしたら。
この問題に善悪や正義は関係ない。
善悪や正義はただ見ている視点が異なるだけだ。
自身の我を通すことは少なからず、他人を傷つけ絶望に追いやる可能性を孕んでいる。
他人を巻き込む自身の行動には必ず「責任」が伴うことを覚悟しなければならない。
行動の責任が何たるかを問うことで、選択と行動が不可避であることを改めて示している。


シナドはしきりに「ライドウを捨てる」ことを強要する。
自身の選択と行動は「ライドウ」という役目に拠るものなのか、はたまた「本名」に拠るものなのか。
捨てることが可能な役目に拠る選択と行動にどれほどの「重さ」があるのか。
だが、人々に与える影響は自身ではなく自身の役目に拠るものの方が大きい。
人々が「変わる」きっかけをつくることに徹して結果のために滅私するか、
人々と衝突しながらも己個人の信条を通してプロセスまで含めて「変える」のか。
はたして自分ならどのような道を選択するだろうか。


・総評
RPGは主人公のためにつくられた世界になりがちだが、主人公が動いて物語も動くのではなく、主人公はあまり喋らずに周りによって物語が動いていくことによって、救世主感を押し出すことなく登場人物の心情描写読み込みをも促進させている。
Amazon のレビューでも高評価なのがうなずける内容。
システムのレビューばかりで物語に対するレビューが無いのはツッコむ余地が無いほどに練りこまれているから、と解釈してもいいかもしれない。
前作はプレイ動画を観ただけで未プレイだったが、今作は主に戦闘場面が進化して爽快感を伴うのでストレスが溜まりにくく、一定の戦略も要求するのでアクションと頭が同時に楽しい。
また、モブや悪魔の会話内容はあいかわらず遊び心があり、別件依頼があることで本筋の重さを相殺しているが、
制作陣の恨み節がこもっているとすら思える物語展開と本筋の強烈な問いかけは顕在。
これを反映するように、物語中は選択肢が多くマルチエンドなのでプレイヤーの性格が出る。
ちなみに私はラストダンジョンにある選択肢で、8段階あるうち最も chaos 寄りという結果だった。
「自分の気持ちに正直でいられるがそれゆえに周りに敵を作りやすい」
これはあってるのかなぁ。


マニアクス・クロニクルエディションと併売は諸刃の剣的な手段だが、この販売戦略はアタリだ。
前作の悪評を覆すとともに離れていた客層も食いつかせた。
内容が充実していなければ反感を買うだけだっただろうが、他シリーズのプレイヤー達をも唸らせる作品に仕上がっている。