レビュー 『ゼロ年代の想像力』 と その他諸々

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力


・前提
「モノはなくても物語がある」 
 ⇒ 「モノはあるが物語がない」
「不自由だが暖かい(わかりやすい)社会」 
 ⇒ 「自由だが冷たい社会」
「〜する」「〜した」こと(行為)がアイデンティティ 
 ⇒ 「〜である」「〜ではない」こと(状態)がアイデンティティ
自己像=キャラクターへの承認が求められ、問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分を納得させる理由を考える」


・古い想像力
社会的自己実現への信頼低下は90年代後半にかけて最も広まった。『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)は上記の前提に基づいており、社会的自己実現の嫌悪が「がんばると、必ず過ちを犯し誰かを傷つける」という世界観に補強されている。「引きこもり/心理主義」的傾向とその結果出力された「〜しない」という倫理。TV版は自己愛への母親的承認による全能感の確保で生き延びようとし、劇場版はその空虚さを受け入れた上で、「キモチワルイ」と言われても他者とのコミュニケーションを模索するしかないという回答をした。この回答に怯えた者たちは、自分たちの肥大したプライドに優しい徹底した自己愛への退却、すなわち「セカイ系」を選ぶことになる。


・新しい想像力
バトル・ロワイヤル』(1999)から始まり、『リアル鬼ごっこ』(2001)、『仮面ライダー龍騎』(2002)、『ドラゴン桜』(2003)、『Fate/stay night』(2004)、『女王の教室』(2005)。アメリ同時多発テロ構造改革格差社会という言葉の登場のように、ある種の「サヴァイヴ感」ともいうべき感覚が共有され始める。この状況下では引きこもり思想が怯えていた社会の不透明さは既に「前提」として織り込み済みのものであり、他者に手を伸ばす態度によって克服されている。文芸の世界でも『蹴りたい背中』(2003)、『野ブタ。をプロデュース』(2004)など、いずれも学生を主人公としクラスの人間関係を主題としていた。ライトノベルでも『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2004)、『ちーちゃんは悠久の向こう』(2005)など、同様のモチーフを有している。


・「物語回帰」のゼロ年代
一方で、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)に象徴されるノスタルジー、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)、『恋空』(2006)などに象徴される「泣ける」純愛ブームはゼロ年代を特徴づけるベタな王道回帰といえる。また、オタク系文化においては中高年を中心に『仮面ライダー響鬼』(2005)『天元突破グレンラガン』(2007)あるいは福井晴敏が支持を受ける。これらは70年代以前への回帰ではなく、むしろ「究極的には無根拠であるにもかかわらず、あえて」「信じたいものを信じる」決断主義的な態度で選択された「小さな物語」の導入なのだ。ここで問題なのは物語の内実ではなく態度=あり方である。「信じたいものを信じればいいのだ」というベタに生きる思考停止状態では互いにその真正さを政治的な勝利で証明するために争うことになる。ミクロでは「ケータイ小説」に涙する女子高生と「美少女(ポルノ)ゲーム」に耽溺するオタク少年が互いに軽蔑する学校教室の空間である。


碇シンジから夜神月
ゼロ年代の想像力を体現しているのが『DEATH NOTE』(2003)である。夜神月は既存の社会を信用しておらず官僚になって権力を握ることで具体的に社会を変革しようとしており、ノートの出現によってその計画が前倒し・拡大されている。登場人物それぞれの倫理や正義が主張されるが、その真性さは局所的な勝利でしか示すことができず暫定的なもの(=小さな物語)にすぎないという諦念が徹底して打ち出されている。そもそも決断主義的なライトに賛同・同調してしまう民衆もまた決断主義的で、月は自覚的に民衆の支持を煽動する政治的動員「ゲーム」として割り切ってしまう。しかも結末において月が敗北しても「ゲーム」は終わらない。「月を止めるにはどうしたらよいか」、「ゲームを止めるにはどうしたらよいか」これがゼロ年代を生きる私たちの課題なのだ。碇シンジ(引きこもり)では夜神月決断主義)を止められない。


・「セカイ系」の限界
最終兵器彼女』(2000)、『イリヤの空、UFOの夏』(2001)、『ほしのこえ』(2002)。更科修一郎が指摘するように、セカイ系とは「結末でアスカに振られないエヴァ」である。「無条件で自分にイノセントな愛情を捧げてくれる美少女からの全肯定」、これは「引きこもり/心理主義」のもっとも安易な形での完成形だと言える。『失楽園』(1997)、『愛の流刑地』(2004)、『Kanon』(1999)、『AIR』(2000)、『GUNSLINGER GIRL』(2002)、これらは自分を全肯定してくれる女性像の「所有」の導入を選択する態度にほかならない。「セカイ系」は社会的物語を供給しない物語を備旧しない世界において、母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止する、いわば極めて無自覚な決断主義の一種に過ぎない。


・サヴァイヴ系の系譜とその可能性
ゼロ年代が描いてきた決断主義的バトルロワイヤルは、概して肯定的には描かれておらず、むしろ常に克服されるべき対象として描かれてきた。『バトル・ロワイヤル』、『無限のリヴァイアス』(1999)、『リアル鬼ごっこ』、『仮面ライダー龍騎』などは暴力の連鎖を強いるシステムへの批判をその主題に孕んでいたことは非常に重要である。それは後期サヴァイヴ系作品ともいうべき『DEATH NOTE』、『コードギアス』(2006)などの近年の作品においても変わらないが、これらにはゲームのキーパーソンとして(メタ)決断主義者が設定される。ゲームの強力なプレイヤーでありながら同時に限定的な設計者にもなり得る(メタ)決断主義者同士の動員ゲームとして捉えることは、決断主義の超克への前提のひとつなのだ。『野ブタ。をプロデュース』ではゲームの勝利では贖えない(有限であり、入れ替え不可能な)関係性を獲得するという可能性が提示されている。また『セクシーボイスアンドロボ』(2007)では才覚をもたない凡庸な決断主義者動員ゲームのプレイヤーにおいては所有しあう共依存関係ではなく「〜する/〜した」友達関係の回復が可能性として提示されている。


・「脱セカイ系」としてのハルヒ
涼宮ハルヒの憂鬱』(2003)では、「セカイ系的な世界観に生きる少女を所有するセカイ系(メタセカイ系)」という形式を取ることにより、『NHKにようこそ』(2002)や『AIR』で露骨に出現していたマチズモが迂回路を取って強化されつくして消費者に備給されているセカイ系の臨界点だと言える。本作は、言ってみれば『ハチミツとクローバー』(2000)のような等身大の学園青春が欲しいと素直にいえない人のための、自転車の補助輪のような優しい作品だ。涼宮ハルヒの抱える「憂鬱」の正体とは「つまらない世の中(日常)」がもたらすものではなく、未来人も宇宙人も超能力者もいる(ロマンがたしかに存在する)この日常の豊かさに、肥大した自意識とプライドが邪魔して気づくことができないハルヒ自身の不器用さがもたらした「憂鬱」なのだ。「ライブアライブ」の充実感は自らの「酸っぱい葡萄」的な憧れを自覚を促すものとして作用したのだ。消費者を気持ちよくさせるための周到な仕掛けは、逆説的に日常の中のロマンという、ハルヒの(そして想定される消費者たちの)内なる欲望の存在を結果的に浮き彫りにしているのだ。


・時代を祝福/送葬するために
人は物語から逃れられない。決断主義的動員ゲーム=バトルロワイヤルは止まらない。「政治」の問題としては「環境」を社会設計(アーキテクチャ)によってコントロールする「設計主義」がその回答に他ならない。だが、個人の生の問題として、そこから零れ落ちる「文学」の問題として、私たちにできることはないだろうか。世の中で人々が陥りがちな決断主義=誤配のない小さな物語の暴力に依存しない方法を、ゼロ年代の想像力は模索してきたのだ。「終わり」を見つめながら一瞬のつながりの中に超越性を見出し、複数の物語を移動する――次の時代を担う想像力は、たぶんここから始まっていくのだろう。


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かなり意図的にアニメ・マンガに関する部分をまとめてしまったが、そのジャンルでさえこの固有名詞の量。個別の作品をなぞりながら、手元に置いて何度でも読んで楽しめる本だといえるだろう。ゼロ年代と文学を考えるために必読。
中身をあえて一言でいえば「碇シンジのための実戦的処世術アドバイス書」。悪く言えば「何もしない」倫理を選択した人・どのトライブにも属せずにいた人が最もオモシロク読める本だ。オタクに属すことを選択した人、スイーツ(笑)に属することを選択した人たちはおもしろくないだろう。オタクや「エロゲ」を肯定してくれていた(ようにみえる)東浩紀が批判されたり、読んで見て涙した『恋空』に「あ〜はぃはぃ、純愛ね」とツッコミを入れられれば腹も立つ。事実、批判されたと思って「what」の中味を読み込まずに「how」のレベルで反発しているレビューもある。こうなってしまうと痛いところをつかれたから大声出しているだけのようにしかみえない。本書が本質的に主張していることは「みんな!もっと考えて生きてみようぜ」ってことだ。自分についても他人についても考えること。自身の属するトライブや文化だけにこだわってばかりいると、それを真正化するために他の文化を攻撃したり足を引っ張ってばかりになっちゃうよ、と言っているのだ。もうちょい他人に対して余裕持とうよ、もうちょい他人のことに関心持ちながらもほっとこうよ。ある一定層の票を集めたいがためにその文化を肯定し賞賛するのは仕方ないとしても相対化の作業は必要だ。著者の宇野は東を全否定しているわけではない。文学の分野についてはズレテマスヨと言っているが、政治の分野での環境管理型権力という考え方には書き方からして評価はしていると思われる。Amazonのレビュー評価が本書の価値と意味を逆説的に示している。当たり障りのない抑制された内容の本なんて読んでもつまんないでしょ?評価が割れるってことは刺激的で読み応えがあるってことの裏返しでしょう。
ただ、処方箋の予感として出された宮藤官九郎的「中間共同体」やNANAハチクロ的「恋愛から友情へ」「家族から擬似家族へ」という転換は文学の世界にとどまる気がするなぁ。どれもコミュニケーション能力が高いことが成立条件だし、そもそもそういう人たちは動員ゲーム的サヴァイヴへの適応能力も比較的高いんじゃないだろうか。コミュニケーションを無難にこなせるが故に周りに合わせて息苦しさを感じる人たちも、なんとか適応できてしまってるから新たな規範への移行はかなり緩やかなものとなるだろう。コミュニケーションそのものに問題を抱える人に至っては・・・・・・いや、言うまい。
印象に残っているのは第十二章『仮面ライダー』シリーズにおける「変身」と「正義」「成熟」を扱った章かな。複数文化圏を横断して支持を受けなければならないが故に普遍性を持った物語になること。さらには「正義」の執行を要求され描かざるを得ないこと。これらの点を初代と比較しつつ平成ライダーの変遷を追っている。ライダーの「変身」とはそもそも疎外感(によって逆説的に肥大化したナルシシズム)とトラウマに拠るものだったのに対し、後期平成ライダーにいくに従って着脱可能なものとして、敵に合わせた適応(コミュニケーション)として肯定的に描かれているという指摘。たまたま以前にNHKで放送していた『青春集合!アラハタのすべて〜Around20〜』でのアラウンド20歳の考え方を観る機会があったのでタイムリーなものだった。
この番組内で特に注目したのが「人脈」についてと「キャラ」についてのアンケート結果だ。特に意識的に「人脈」を構築していこうという人は2〜3割と少なかったが、「意識的な人もいるが私は違う」という対比の論理が多く見受けられた。この意味で両者には前提としての「焦りとサヴァイヴ感」は共有されていると考えられる。「キャラを意識するか?」という質問には、実に半数が意識すると答えていた。その「キャラ観」は、コミュニケーションを円滑に進めるためというものだった。だが、相手によってキャラを変えると答えた人たちに共通していたのは「疲れる」という意見。局所的にはやり過ごせても、「適応としてのキャラ」に自覚的あることが自身の息苦しさにつながってしまっている。血液型などに代表される占いが未だに大きな力を持ち続けているのは、血液型や誕生日、名前の画数などの自分では操作し得ない要素と結び付けられて「あなたはこういうキャラである」と無条件に承認されることで「適応としてのキャラ」の自覚を抑制してくれるという、キャラ自覚予防薬としての楽さ・心地よさがあることに関係しているのかもしれない。


以下は本書の刺激を受けて個別のアニメ作品について考えたこと。


・「セカイ系」という語の終焉
トレンドとしての「サヴァイヴ」。この発見によって「セカイ系」という言葉は、少なくとも批評の世界では死語になっていくだろう。メタ化・隠蔽されていないセカイ系は開き直ったただの「欲望」の産物であると断罪されてしまった。これに対抗しうるセカイ系を肯定する言論・評論が誕生しない限り、「セカイ系」に分類すること自体がセカイ系が欲望の産物であることを暗に認めることを意味してしまう。もしセカイ系的フォーマットの作品を肯定していくとするならば、セカイ系という言葉は封印せざるを得ない。もはや肯定的バズワードとしての「セカイ系」という語を用いた説明が作品の批評性を担保することはない。だが確かに、ちょっと前まではセカイ系は批評性を帯びていた。「世界の命運が彼女にかかっておりその彼女から承認されること」には、それまで想定されていた<個人-社会-世界>という段階的階層が描かれず、個人を取り巻く環境と関係性そのものがもはや<世界>であることを、<社会>を「あえて」描かないことで示していた。だが時代が経るにつれていつしかセカイ系における<社会>は、あえて「描かない」ものではなく、ベタに「描けない」ものになっていたのである。消費者側も<社会>はもはや描けないものという感覚を共有し始めていたため、セカイ系はベタに消費され始め作品が持つ批評性は失効し、ただの所有・共依存的恋愛劇に堕ちてしまった。そして、限定された環境・空間内における個々人のサヴァイヴの問題が前面化してきている現在、<世界>というモチーフすらも<個人>のモチーフと同等、あるいはそれ未満のものであるとしか描けなくなってきているのである。だが、無条件に承認されるようなセカイ系的なフォーマットの作品自体はこれからも生み出されていくと思われる。なぜなら確実に需要があり、売れるからだ。物語が<社会>の描かれないシリアス系から、もはや<社会>が描けない日常コメディ系になっただけで、このフォーマットは延々と受け継がれていくだろう。


・「ポスト・エヴァ」の終焉
本書においてはあまり語られていないが、『ラーゼフォン』(2002)、『蒼穹のファフナー』(2004)、『交響詩篇エウレカセブン』(2005)、これらを「ポスト・エヴァ」の文脈で捉えようとすると正当な評価が難しくなる。細部の物語構造やモチーフにこだわり比較・検討すれば当然類似したものは見つかるだろう。しかしそれは「エヴァである/でない」と思考停止した感性と批評精神の鈍い物言いでしかない。もっと本質的なテーマやモチーフ、そして宇野の視点のように「織り込み済み」すなわち物語の前提部分にこそ着目すべきだ。そう「コミュニケーション」である。『新世紀エヴァンゲリオン』は正体不明の使徒(異形の他者)から防衛するために行動をしなければならない。その行動こそが自己承認と同義であり、異形の他者は無条件・無批判な排除の対象であった。だからこそ自身と「同じ」だが暫定的な敵でもあるカヲルの存在に対しシンジは悩み困惑した。『ラーゼフォン』では皆が「同じ」であることが前提となっており、しかし次第に侵食されていき中身は敵(ムーリアン)か味方かわからない状態となっていくなかで排除をめぐる自身の葛藤がテーマとなっている。『蒼穹のファフナー』では異形の他者(フェストゥム)との戦闘が不可避なものとして前提に提示され、戦闘を重ねるたびに敵側に近づいていってしまうというジレンマをどう克服するかをテーマとし、次第に対話と共存の道を見出している。『交響詩篇エウレカセブン』ではもはや「日常」が前提となっており異形の敵は存在しない。その代わり、一番身近な異形の他者(異性)との対話と共存という恋愛をめぐるコミュニケーションがメインテーマとして提示される。さらにこれを土台として「成熟」とは何かということを主人公及びサブキャラクターを含めて模索し、不十分ながらも回答した意欲的作品である。個人的には『エウレカセブン』をもって「ポスト・エヴァ」をめぐる一連の言説にはケリがついたんじゃなかろうかと思っている。『エウレカ』が出した「傷つけ合ってもコミュニケーションしていくしかない」という回答。コミュニケーションの問題は普遍的であり宿命的、だからこそ不可避であることを前提に受け入れて前進するしかないことが『エヴァ』から十年経って改めて提示されることで『エヴァ』の特殊性・特権化を謳う言説はようやく失効した。見方によってはこれを『エヴァ』への回帰だと言う人もいるだろう。だが、アニメ界は「サヴァイヴ感」の到来による「引きこもり/心理主義」の後退もあって、やっと『エヴァ』の呪縛から解放されたのだ。既に『エヴァ』の時代は終焉し、社会状況とは切り離された一コンテンツとしてしか存在していない。もう『コードギアス』の時代が始まっているのだ。


・なぜ『涼宮ハルヒの憂鬱』は処方箋となりえないか
涼宮ハルヒの憂鬱』はテレビシリーズを一回通して見ただけだ。なぜ繰り返して視聴しないのか、理由は「見ていられないから」。『ハルヒ』を観ている時の痛さはこの作品のあまりの「優しさ」ゆえだ。学生時代につながりを感じられる共同体験が乏しかった者にとってハルヒはまさに自分自身の投影対象となってしまうが、迂回した(メタ)セカイ系共依存的承認構造を隠蔽しながらもさらに強化して「所有」欲求を満たすと同時に、過剰に散りばめられた教科書的「萌え」要素を「あえて」消費しているかのように錯覚させる。キョンという着脱可能な「自己反省」緩衝材はあまりにも優秀で親切であり、このフィルターを通すことによって視聴者自身が憧れながらも成しえなかった過去の時代をハルヒキョンたちに代替体験させることで、過去を反省することなく昇華させることができてしまうのである。この構造に無自覚な時はいいが、一種の「ズルさ」を自覚してしまったら最後、過剰に盛り込まれた「萌え」要素群をベタに消費することすら恥ずかしくてできなくなってしまう。青春時代を謳歌していない(できなかった)者たちにとって『ハルヒ』は、あまりに「痛い」と同時に居心地が良すぎるのだ。それゆえ視聴者は自身の「悶々としたノスタルジー」とハルヒたちの「小さなイベント」による無尽蔵の相互備給関係によって、一種の「終わらない青春時代」を擬似的に体験しているのである。ここには現実世界へコミットするような比喩的・示唆的表現は一切無く、あるのは居心地のいい作品世界への逃避が選択肢として提示されるのみである。アニメの『ハルヒ』は二期が予定されているが、この作品の娯楽性を追及する安易な方法論として、一期の結末を無かったことにしてそれまでの恋人未満の関係性のまま「小さなイベント群」をこなすという無難なやり方がある。もしこの安易な方法論を展開せず、関係性を発展させた状態で物語を展開し何らかの回答を提示できたならばこのシリーズ作品の批評性は確実に高まるだろう。


・『コードギアス』は現代の処方箋となりうるか?
正直に言うと『コードギアス』は一期しか見ていない。なぜ二期を見ないのか、自分でもその理由を整理し切れていないが、おそらくは描写不足と自身の読み込みの甘さに拠るものである。『DEATH NOTE』の主人公である月は NOTE を手に入れる前は強固な信条を持った人物であり、能力を手に入れたことで決断主義的性格がより強調されて発現しただけと解釈できる。そして冷徹な決断主義者として戯画的に描いて最後には敗北させることで、逆説的に決断主義が何も生まないことを指摘しその態度を批判したものであった。「動員ゲームをどう止めるか」という命題について物語内では回答しきれていなかったが、その決断主義に対する一貫した批判的態度をもって読者へ警鐘として伝わるに十分だったはずだ。一方の『コードギアス』の主人公であるルルーシュは「ギアス」能力を手に入れる前は現状を追認し受け入れることで処世するという、いわば碇シンジ的諦念主義に覆われた人物だったはずだ。それが「ギアス」を手に入れてからはその能力を利用し世の中を是正しようと夜神月決断主義へ移行している。両主義の間で揺れ動く様が人間らしくて素敵!ということだと思うのだが、移行の背景と動機の描写があまりシックリきていない。ルルーシュが敵視しているブリタニア皇帝は生粋のサヴァイヴ主義者であり「闘争し権力を志向しないものはクズだ」と断じる決断主義者であって、ルルーシュが動員ゲームに自ら参加することは嫌悪しているブリタニア皇帝を肯定することになりはしないだろうか?このあたりに葛藤というか描写というのが不足していたように思う。これは物語内ではなく視聴者が補完すべき問題なのかもしれないが「能力あるものが主張するならば動員ゲーム的サヴァイヴに参加しなければならない」と前提に基づいているのだろうか?
ルルーシュとスザクの対比について。スザクは内部からの変革を志向し、ルルーシュは闘争による変革を志向する。『DEATH NOTE』を援用すれば、スザクは夜神月的な「大人の」、ルルーシュは「子どもの」選択をしたように見える。しかし『コードギアス』物語では動員ゲームを志向するルルーシュはダークヒーローとして支持を受ける一方で、スザクはただの「甘ちゃん」に成り下がっている。これは視聴者間に共有されている「もはや動員ゲームは不可避であり、逃避するスザクはへたれだ」ということなのだろうか?もしこの安易な二元論に基づいてルルーシュとスザクが対比されているのだとするならば、民衆(視聴者)は「内容の如何は問わないから、強力なリーダーが欲しい」だけなのではないか。事実、現実の政治にも同じことが起こった。「生き残っているから強い」、「支持率が高いから強い」という民衆の思考停止による認識の反転現象は、動員ゲームの安易な肯定と煽動政治の復活を意味しているのではないだろうか。このあたりの「強力なリーダーに従うことは気持ちいいんだ」という開き直りの「前提」があるんじゃないだろうか。最終的に、この前提テーマに抗うことを示そうとするならば、ハルヒのような「身近な小さな幸せに気づくルルーシュ」か、夜神月のような「力に溺れて破滅するルルーシュ」しか描けないのでは。大河ドラマハルヒ的結末を迎えることは視聴者が許さないだろう。かといって大河ドラマが破滅してもらっても困る。『コードギアス』は今までの作品とは違う結末を迎えることができたのだろうか?
お、こう考えてきたら二期が見たくなってきたぞ。