「メイク」表現の可能性

アニメキャラのメイク

マンガやアニメを視聴する際、登場するキャラクターの「メイク」について考えたことはあるだろうか?


もちろん媒体によって色彩表現の得手・不得手はある。
マンガはモノクロのページが多いので、色彩表現については不利な媒体だといえる。表現できるのは、カラーページを任せられるほどの人気作品を描き上げたときか、もしくは単行本の表紙。それぐらいなのではないだろうか。
アニメはカラーが標準なので色彩表現の機会は多い。しかし顔のメイクとしてその色彩表現が用いられることは意外と少ない。


リアルの顔におけるメイクは、骨格やつくりの膨大なサンプルとその統計によってある程度成熟している。しかしマンガ・アニメの顔は、骨格やつくりのレベルから画師ごとにバラバラであり同一統計としてカウントできない。そして、顔の各パーツを記号的に表現してしまうが故に、その記号的表現に合った「メイク」というものが未だ発見されていないのである。技術的な色彩表現は進化しても、顔面上の色彩表現は意外と進化していない。


マンガ・アニメにおける「メイク」表現は、作者の微細な色彩描写と視聴者の読み込みを要求する。これが枷となってメイク表現はなかなか使われないのだが、あまり使われない表現であることが逆に意味を持つようになっていく。


演出と絡めてみていこう。メイクしている最中のシーンが物語のメイン要素として扱われることは極めて稀で、大体は数枚・数秒のカットが場面転換として挟まれるだけである。また、作品内に登場するキャラクターたちは既に「顔だち」のレベルで美少年/美少女であるために、それなりのモノにする(つくる)という意味でのメイクの必要性を感じない。同一キャラクターのメイクは「すっぴん」の対照として描かれることはあっても、「メイクA/メイクB」というように異なったメイクどうしが対比されることがまず無い。なにより、すっぴん顔やメイク顔という画そのものはどちらも既に単体で完成された「別の顔」であるために、すっぴんとメイク間の顔のグラデーションが描けないのである。


マンガ・アニメにおけるメイク表現は、顔を完成形につくるというグラデーションとしては描かれない。このように「メイク」の指し示す意味範囲が限定されることによって、より「別の顔」になることが強調されるようになるのである。完成形として別個に存在していた顔を「メイク」することによって使い分ける。メイクによって「別の顔になる」ことは性格や能力の一部を「強化」するのみならず、全く別の顔に「変身」する表現となる。


もうすでに思い浮かんだ人もいるだろう、一番分かりやすいのが『美少女戦士セーラームーン』である。この作品では「メイクアップ」=衣装チェンジとアクセサリー追加による「変身」として簡略化され、顔のメイクは描かれない。この作品の一番の売りは『仮面ライダー』と同じく「変身」によるピンチ逆転劇だったはずだ。顔のメイクが変化するだけでは伝わりにくいし、一番の売りがショボく見えてしまう。それに、敵が異様にケバいオバサンとして嫌悪的に描かれていたように、この物語は「純潔」対「妖艶」の構図をとっている。顔をメイクすることは敵側に近づくことを意味し、この構図を崩してしまいかねない。以後も続いている美少女戦士フォーマットの作品では物語の構図的にも、顔のメイクは避けられているのである。



「変身」としてではなく、顔のメイクによってキャラクターそのものの性質を描いているのが高橋留美子だ。
うる星やつら』のラムはその衣装がよく注目されるが、このキャラクターの本質は衣装ではなく「アイシャドウ」である。虎縞ビキニという衣装は「ありえない」ものだからこそ、宇宙人の記号として機能する。虎縞ビキニを着ている限り、ラムは「宇宙人」であり人間ではない。だからあたるや視聴者は、その露出は付属的で二次的に発生した魅力として言い訳できるわけだ。
しかし、アイシャドウは宇宙人でなくとも現実に「ありうる」ものである。現実にありうる以上、それは宇宙人の付属的で二次的な魅力としてではなく、人間と同列な一次的な魅力としての「メイク」として認識される。ラムの衣装が虎縞から制服へと変わるとき、適度に塗られたアイシャドウは「誘惑」の記号として機能し始めるが、このことに無自覚なラム本人は「無邪気さ」を保っているのである。これは「誘惑」と「無邪気さ」を同時に発露させる、かなり高度な表現といえるだろう。
いろいろな著名人がラムを描いているが、アイシャドウのあるなしでその印象がガラッと変わることにお気づきいただけると思う。


http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1051281.html



・・・というか、アイシャドウを描く作家ってこの人以外にどれだけ居るんだろうか?ただ知らないだけなのか、全然思いつかない。
高橋留美子が描くキャラクターたちにアイシャドウはとてもよく似合う。『犬夜叉』では珊瑚と神楽、殺生丸など多くのキャラクターがアイシャドウをしている。これは魔除けとしての赤土化粧を現代風に描いたのものなのだろうが、和服・黒髪に赤いアイシャドウは非常によく映える。昔の人はこの相性を自然に見つけたんだと思うとなんだか感慨深い。


Ergo Proxy』のリル・メイヤー。このキャラクターは青のアイシャドウ。使い方は男のためとか魔除けとかではなく、自己主張の象徴として描かれている。それ以上でも以下でもないが、こういったキャラクターを主役に物語を展開したという点において、少なくとも自分の頭には印象深く刻まれている。構成やストーリーもかなり凝っていて、謎解きレベルでも十分楽しめる良作だと思う。
http://broadband.biglobe.ne.jp/vstore/contents_top_cp.do?SC_ContentsMetaID=3639


花王 キュキュット」のオトワさん。このキャラクターは紫のラインに青のシャドウ。マンガでもアニメでもなく、たった15秒間のCMなんだけど記憶に残っている。知り合いも「妙に色っぽいね」といっていたので、結構な割合で同意してもらえるんじゃないだろうか。粘土であれだけの色っぽさをだせるのもアイシャドウのおかげだろう。
http://www.kao.co.jp/kyukyutto/family_info.html



また、「メイク」のもつ組み合わせや相性といったような、ある種の「ゲーム性」はそのままゲームにも応用できる。
ちょっと前までは女性ユーザー向けのファッションの分野に限られていたシミュレーションゲーム。これを男性ユーザー向けに、ファッションとメイクを含めた総合的「育成ゲーム」とすることで新たなジャンルが切り拓かれた。それはデフォルメされた2Dよりもリアル志向の3Dで既に現実化している。


ここだけ再生数が多いw。やがて独立したゲームとして販売される日も近いかもしれない。


関連:http://news4vip.livedoor.biz/archives/51262197.html


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