レビュー 『ホーリーランド』

人が居て、自分が居る。
組織をつくり、経済活動をする。
人間は社会的な動物だ。


「人は一人では生きていけない」などという。
それはつまり「他人とともに生きなければならない」という意味でもある。
こんな面倒なことはない。
 自分の思い通りにならない奴らに合わせて行動する
 自分の存在価値を他人が判断する
これらの条理に従わないものは排除される。
「居場所」を奪われる。
他人の勝手な都合と価値判断によって。


唯一、この檻から逃れる方法。
「暴力」
他人を抑え、自分を通すことができる手段。
たとえ資本主義法治国家にあろうと即時的効果を発揮する。


己を守るために身に付けた力、それはあくまで受身の防衛行動に過ぎない。
一方、自分の居場所を作るための力は攻撃を伴う。
「居場所がある」と感じられるまでその攻撃が止まることはない。
居場所を奪った者がそのトリガーを引き、連鎖が始まる。



暴力を伴った辛い過去が彼の内奥に凶暴な獣を育ててしまったのではないか



居場所は与えられるものでも、見つけるようなものでもない。
居場所はつくるものだということ。
その手段がたまたま暴力だったということだけの、とてもシンプルな話。
あとは人間の本性が暴力に根ざしていることを認めるかどうか。
それによって初めて、この作品を単なる格闘漫画に終わらせない捉え方ができる。


現代社会は人間の本性を押さえ込み、資本という別の、しかし死に至る暴力を振るう。
直接殴られたりしない、代わりに「社会的」に攻撃される。
これらを健全とするならば、暴力よりも性質が悪い。
抑圧されている(ようにみえる)人間の暴力性に焦点を当てることで、システム化された社会の欺瞞性をも指摘する。
現代社会は複雑なようでいて、その実、中身は原始と何ら変わっていないのではないか。
まだまだ大人になりきれない大人が読む一冊。


ホーリーランド (1) (Jets comics (846))

ホーリーランド (1) (Jets comics (846))

「メイク」表現の可能性

アニメキャラのメイク

マンガやアニメを視聴する際、登場するキャラクターの「メイク」について考えたことはあるだろうか?


もちろん媒体によって色彩表現の得手・不得手はある。
マンガはモノクロのページが多いので、色彩表現については不利な媒体だといえる。表現できるのは、カラーページを任せられるほどの人気作品を描き上げたときか、もしくは単行本の表紙。それぐらいなのではないだろうか。
アニメはカラーが標準なので色彩表現の機会は多い。しかし顔のメイクとしてその色彩表現が用いられることは意外と少ない。


リアルの顔におけるメイクは、骨格やつくりの膨大なサンプルとその統計によってある程度成熟している。しかしマンガ・アニメの顔は、骨格やつくりのレベルから画師ごとにバラバラであり同一統計としてカウントできない。そして、顔の各パーツを記号的に表現してしまうが故に、その記号的表現に合った「メイク」というものが未だ発見されていないのである。技術的な色彩表現は進化しても、顔面上の色彩表現は意外と進化していない。


マンガ・アニメにおける「メイク」表現は、作者の微細な色彩描写と視聴者の読み込みを要求する。これが枷となってメイク表現はなかなか使われないのだが、あまり使われない表現であることが逆に意味を持つようになっていく。


演出と絡めてみていこう。メイクしている最中のシーンが物語のメイン要素として扱われることは極めて稀で、大体は数枚・数秒のカットが場面転換として挟まれるだけである。また、作品内に登場するキャラクターたちは既に「顔だち」のレベルで美少年/美少女であるために、それなりのモノにする(つくる)という意味でのメイクの必要性を感じない。同一キャラクターのメイクは「すっぴん」の対照として描かれることはあっても、「メイクA/メイクB」というように異なったメイクどうしが対比されることがまず無い。なにより、すっぴん顔やメイク顔という画そのものはどちらも既に単体で完成された「別の顔」であるために、すっぴんとメイク間の顔のグラデーションが描けないのである。


マンガ・アニメにおけるメイク表現は、顔を完成形につくるというグラデーションとしては描かれない。このように「メイク」の指し示す意味範囲が限定されることによって、より「別の顔」になることが強調されるようになるのである。完成形として別個に存在していた顔を「メイク」することによって使い分ける。メイクによって「別の顔になる」ことは性格や能力の一部を「強化」するのみならず、全く別の顔に「変身」する表現となる。


もうすでに思い浮かんだ人もいるだろう、一番分かりやすいのが『美少女戦士セーラームーン』である。この作品では「メイクアップ」=衣装チェンジとアクセサリー追加による「変身」として簡略化され、顔のメイクは描かれない。この作品の一番の売りは『仮面ライダー』と同じく「変身」によるピンチ逆転劇だったはずだ。顔のメイクが変化するだけでは伝わりにくいし、一番の売りがショボく見えてしまう。それに、敵が異様にケバいオバサンとして嫌悪的に描かれていたように、この物語は「純潔」対「妖艶」の構図をとっている。顔をメイクすることは敵側に近づくことを意味し、この構図を崩してしまいかねない。以後も続いている美少女戦士フォーマットの作品では物語の構図的にも、顔のメイクは避けられているのである。



「変身」としてではなく、顔のメイクによってキャラクターそのものの性質を描いているのが高橋留美子だ。
うる星やつら』のラムはその衣装がよく注目されるが、このキャラクターの本質は衣装ではなく「アイシャドウ」である。虎縞ビキニという衣装は「ありえない」ものだからこそ、宇宙人の記号として機能する。虎縞ビキニを着ている限り、ラムは「宇宙人」であり人間ではない。だからあたるや視聴者は、その露出は付属的で二次的に発生した魅力として言い訳できるわけだ。
しかし、アイシャドウは宇宙人でなくとも現実に「ありうる」ものである。現実にありうる以上、それは宇宙人の付属的で二次的な魅力としてではなく、人間と同列な一次的な魅力としての「メイク」として認識される。ラムの衣装が虎縞から制服へと変わるとき、適度に塗られたアイシャドウは「誘惑」の記号として機能し始めるが、このことに無自覚なラム本人は「無邪気さ」を保っているのである。これは「誘惑」と「無邪気さ」を同時に発露させる、かなり高度な表現といえるだろう。
いろいろな著名人がラムを描いているが、アイシャドウのあるなしでその印象がガラッと変わることにお気づきいただけると思う。


http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1051281.html



・・・というか、アイシャドウを描く作家ってこの人以外にどれだけ居るんだろうか?ただ知らないだけなのか、全然思いつかない。
高橋留美子が描くキャラクターたちにアイシャドウはとてもよく似合う。『犬夜叉』では珊瑚と神楽、殺生丸など多くのキャラクターがアイシャドウをしている。これは魔除けとしての赤土化粧を現代風に描いたのものなのだろうが、和服・黒髪に赤いアイシャドウは非常によく映える。昔の人はこの相性を自然に見つけたんだと思うとなんだか感慨深い。


Ergo Proxy』のリル・メイヤー。このキャラクターは青のアイシャドウ。使い方は男のためとか魔除けとかではなく、自己主張の象徴として描かれている。それ以上でも以下でもないが、こういったキャラクターを主役に物語を展開したという点において、少なくとも自分の頭には印象深く刻まれている。構成やストーリーもかなり凝っていて、謎解きレベルでも十分楽しめる良作だと思う。
http://broadband.biglobe.ne.jp/vstore/contents_top_cp.do?SC_ContentsMetaID=3639


花王 キュキュット」のオトワさん。このキャラクターは紫のラインに青のシャドウ。マンガでもアニメでもなく、たった15秒間のCMなんだけど記憶に残っている。知り合いも「妙に色っぽいね」といっていたので、結構な割合で同意してもらえるんじゃないだろうか。粘土であれだけの色っぽさをだせるのもアイシャドウのおかげだろう。
http://www.kao.co.jp/kyukyutto/family_info.html



また、「メイク」のもつ組み合わせや相性といったような、ある種の「ゲーム性」はそのままゲームにも応用できる。
ちょっと前までは女性ユーザー向けのファッションの分野に限られていたシミュレーションゲーム。これを男性ユーザー向けに、ファッションとメイクを含めた総合的「育成ゲーム」とすることで新たなジャンルが切り拓かれた。それはデフォルメされた2Dよりもリアル志向の3Dで既に現実化している。


ここだけ再生数が多いw。やがて独立したゲームとして販売される日も近いかもしれない。


関連:http://news4vip.livedoor.biz/archives/51262197.html


おまけ:

レビュー 『ゼロ年代の想像力』 と その他諸々

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力


・前提
「モノはなくても物語がある」 
 ⇒ 「モノはあるが物語がない」
「不自由だが暖かい(わかりやすい)社会」 
 ⇒ 「自由だが冷たい社会」
「〜する」「〜した」こと(行為)がアイデンティティ 
 ⇒ 「〜である」「〜ではない」こと(状態)がアイデンティティ
自己像=キャラクターへの承認が求められ、問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分を納得させる理由を考える」


・古い想像力
社会的自己実現への信頼低下は90年代後半にかけて最も広まった。『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)は上記の前提に基づいており、社会的自己実現の嫌悪が「がんばると、必ず過ちを犯し誰かを傷つける」という世界観に補強されている。「引きこもり/心理主義」的傾向とその結果出力された「〜しない」という倫理。TV版は自己愛への母親的承認による全能感の確保で生き延びようとし、劇場版はその空虚さを受け入れた上で、「キモチワルイ」と言われても他者とのコミュニケーションを模索するしかないという回答をした。この回答に怯えた者たちは、自分たちの肥大したプライドに優しい徹底した自己愛への退却、すなわち「セカイ系」を選ぶことになる。


・新しい想像力
バトル・ロワイヤル』(1999)から始まり、『リアル鬼ごっこ』(2001)、『仮面ライダー龍騎』(2002)、『ドラゴン桜』(2003)、『Fate/stay night』(2004)、『女王の教室』(2005)。アメリ同時多発テロ構造改革格差社会という言葉の登場のように、ある種の「サヴァイヴ感」ともいうべき感覚が共有され始める。この状況下では引きこもり思想が怯えていた社会の不透明さは既に「前提」として織り込み済みのものであり、他者に手を伸ばす態度によって克服されている。文芸の世界でも『蹴りたい背中』(2003)、『野ブタ。をプロデュース』(2004)など、いずれも学生を主人公としクラスの人間関係を主題としていた。ライトノベルでも『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2004)、『ちーちゃんは悠久の向こう』(2005)など、同様のモチーフを有している。


・「物語回帰」のゼロ年代
一方で、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)に象徴されるノスタルジー、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)、『恋空』(2006)などに象徴される「泣ける」純愛ブームはゼロ年代を特徴づけるベタな王道回帰といえる。また、オタク系文化においては中高年を中心に『仮面ライダー響鬼』(2005)『天元突破グレンラガン』(2007)あるいは福井晴敏が支持を受ける。これらは70年代以前への回帰ではなく、むしろ「究極的には無根拠であるにもかかわらず、あえて」「信じたいものを信じる」決断主義的な態度で選択された「小さな物語」の導入なのだ。ここで問題なのは物語の内実ではなく態度=あり方である。「信じたいものを信じればいいのだ」というベタに生きる思考停止状態では互いにその真正さを政治的な勝利で証明するために争うことになる。ミクロでは「ケータイ小説」に涙する女子高生と「美少女(ポルノ)ゲーム」に耽溺するオタク少年が互いに軽蔑する学校教室の空間である。


碇シンジから夜神月
ゼロ年代の想像力を体現しているのが『DEATH NOTE』(2003)である。夜神月は既存の社会を信用しておらず官僚になって権力を握ることで具体的に社会を変革しようとしており、ノートの出現によってその計画が前倒し・拡大されている。登場人物それぞれの倫理や正義が主張されるが、その真性さは局所的な勝利でしか示すことができず暫定的なもの(=小さな物語)にすぎないという諦念が徹底して打ち出されている。そもそも決断主義的なライトに賛同・同調してしまう民衆もまた決断主義的で、月は自覚的に民衆の支持を煽動する政治的動員「ゲーム」として割り切ってしまう。しかも結末において月が敗北しても「ゲーム」は終わらない。「月を止めるにはどうしたらよいか」、「ゲームを止めるにはどうしたらよいか」これがゼロ年代を生きる私たちの課題なのだ。碇シンジ(引きこもり)では夜神月決断主義)を止められない。


・「セカイ系」の限界
最終兵器彼女』(2000)、『イリヤの空、UFOの夏』(2001)、『ほしのこえ』(2002)。更科修一郎が指摘するように、セカイ系とは「結末でアスカに振られないエヴァ」である。「無条件で自分にイノセントな愛情を捧げてくれる美少女からの全肯定」、これは「引きこもり/心理主義」のもっとも安易な形での完成形だと言える。『失楽園』(1997)、『愛の流刑地』(2004)、『Kanon』(1999)、『AIR』(2000)、『GUNSLINGER GIRL』(2002)、これらは自分を全肯定してくれる女性像の「所有」の導入を選択する態度にほかならない。「セカイ系」は社会的物語を供給しない物語を備旧しない世界において、母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止する、いわば極めて無自覚な決断主義の一種に過ぎない。


・サヴァイヴ系の系譜とその可能性
ゼロ年代が描いてきた決断主義的バトルロワイヤルは、概して肯定的には描かれておらず、むしろ常に克服されるべき対象として描かれてきた。『バトル・ロワイヤル』、『無限のリヴァイアス』(1999)、『リアル鬼ごっこ』、『仮面ライダー龍騎』などは暴力の連鎖を強いるシステムへの批判をその主題に孕んでいたことは非常に重要である。それは後期サヴァイヴ系作品ともいうべき『DEATH NOTE』、『コードギアス』(2006)などの近年の作品においても変わらないが、これらにはゲームのキーパーソンとして(メタ)決断主義者が設定される。ゲームの強力なプレイヤーでありながら同時に限定的な設計者にもなり得る(メタ)決断主義者同士の動員ゲームとして捉えることは、決断主義の超克への前提のひとつなのだ。『野ブタ。をプロデュース』ではゲームの勝利では贖えない(有限であり、入れ替え不可能な)関係性を獲得するという可能性が提示されている。また『セクシーボイスアンドロボ』(2007)では才覚をもたない凡庸な決断主義者動員ゲームのプレイヤーにおいては所有しあう共依存関係ではなく「〜する/〜した」友達関係の回復が可能性として提示されている。


・「脱セカイ系」としてのハルヒ
涼宮ハルヒの憂鬱』(2003)では、「セカイ系的な世界観に生きる少女を所有するセカイ系(メタセカイ系)」という形式を取ることにより、『NHKにようこそ』(2002)や『AIR』で露骨に出現していたマチズモが迂回路を取って強化されつくして消費者に備給されているセカイ系の臨界点だと言える。本作は、言ってみれば『ハチミツとクローバー』(2000)のような等身大の学園青春が欲しいと素直にいえない人のための、自転車の補助輪のような優しい作品だ。涼宮ハルヒの抱える「憂鬱」の正体とは「つまらない世の中(日常)」がもたらすものではなく、未来人も宇宙人も超能力者もいる(ロマンがたしかに存在する)この日常の豊かさに、肥大した自意識とプライドが邪魔して気づくことができないハルヒ自身の不器用さがもたらした「憂鬱」なのだ。「ライブアライブ」の充実感は自らの「酸っぱい葡萄」的な憧れを自覚を促すものとして作用したのだ。消費者を気持ちよくさせるための周到な仕掛けは、逆説的に日常の中のロマンという、ハルヒの(そして想定される消費者たちの)内なる欲望の存在を結果的に浮き彫りにしているのだ。


・時代を祝福/送葬するために
人は物語から逃れられない。決断主義的動員ゲーム=バトルロワイヤルは止まらない。「政治」の問題としては「環境」を社会設計(アーキテクチャ)によってコントロールする「設計主義」がその回答に他ならない。だが、個人の生の問題として、そこから零れ落ちる「文学」の問題として、私たちにできることはないだろうか。世の中で人々が陥りがちな決断主義=誤配のない小さな物語の暴力に依存しない方法を、ゼロ年代の想像力は模索してきたのだ。「終わり」を見つめながら一瞬のつながりの中に超越性を見出し、複数の物語を移動する――次の時代を担う想像力は、たぶんここから始まっていくのだろう。


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かなり意図的にアニメ・マンガに関する部分をまとめてしまったが、そのジャンルでさえこの固有名詞の量。個別の作品をなぞりながら、手元に置いて何度でも読んで楽しめる本だといえるだろう。ゼロ年代と文学を考えるために必読。
中身をあえて一言でいえば「碇シンジのための実戦的処世術アドバイス書」。悪く言えば「何もしない」倫理を選択した人・どのトライブにも属せずにいた人が最もオモシロク読める本だ。オタクに属すことを選択した人、スイーツ(笑)に属することを選択した人たちはおもしろくないだろう。オタクや「エロゲ」を肯定してくれていた(ようにみえる)東浩紀が批判されたり、読んで見て涙した『恋空』に「あ〜はぃはぃ、純愛ね」とツッコミを入れられれば腹も立つ。事実、批判されたと思って「what」の中味を読み込まずに「how」のレベルで反発しているレビューもある。こうなってしまうと痛いところをつかれたから大声出しているだけのようにしかみえない。本書が本質的に主張していることは「みんな!もっと考えて生きてみようぜ」ってことだ。自分についても他人についても考えること。自身の属するトライブや文化だけにこだわってばかりいると、それを真正化するために他の文化を攻撃したり足を引っ張ってばかりになっちゃうよ、と言っているのだ。もうちょい他人に対して余裕持とうよ、もうちょい他人のことに関心持ちながらもほっとこうよ。ある一定層の票を集めたいがためにその文化を肯定し賞賛するのは仕方ないとしても相対化の作業は必要だ。著者の宇野は東を全否定しているわけではない。文学の分野についてはズレテマスヨと言っているが、政治の分野での環境管理型権力という考え方には書き方からして評価はしていると思われる。Amazonのレビュー評価が本書の価値と意味を逆説的に示している。当たり障りのない抑制された内容の本なんて読んでもつまんないでしょ?評価が割れるってことは刺激的で読み応えがあるってことの裏返しでしょう。
ただ、処方箋の予感として出された宮藤官九郎的「中間共同体」やNANAハチクロ的「恋愛から友情へ」「家族から擬似家族へ」という転換は文学の世界にとどまる気がするなぁ。どれもコミュニケーション能力が高いことが成立条件だし、そもそもそういう人たちは動員ゲーム的サヴァイヴへの適応能力も比較的高いんじゃないだろうか。コミュニケーションを無難にこなせるが故に周りに合わせて息苦しさを感じる人たちも、なんとか適応できてしまってるから新たな規範への移行はかなり緩やかなものとなるだろう。コミュニケーションそのものに問題を抱える人に至っては・・・・・・いや、言うまい。
印象に残っているのは第十二章『仮面ライダー』シリーズにおける「変身」と「正義」「成熟」を扱った章かな。複数文化圏を横断して支持を受けなければならないが故に普遍性を持った物語になること。さらには「正義」の執行を要求され描かざるを得ないこと。これらの点を初代と比較しつつ平成ライダーの変遷を追っている。ライダーの「変身」とはそもそも疎外感(によって逆説的に肥大化したナルシシズム)とトラウマに拠るものだったのに対し、後期平成ライダーにいくに従って着脱可能なものとして、敵に合わせた適応(コミュニケーション)として肯定的に描かれているという指摘。たまたま以前にNHKで放送していた『青春集合!アラハタのすべて〜Around20〜』でのアラウンド20歳の考え方を観る機会があったのでタイムリーなものだった。
この番組内で特に注目したのが「人脈」についてと「キャラ」についてのアンケート結果だ。特に意識的に「人脈」を構築していこうという人は2〜3割と少なかったが、「意識的な人もいるが私は違う」という対比の論理が多く見受けられた。この意味で両者には前提としての「焦りとサヴァイヴ感」は共有されていると考えられる。「キャラを意識するか?」という質問には、実に半数が意識すると答えていた。その「キャラ観」は、コミュニケーションを円滑に進めるためというものだった。だが、相手によってキャラを変えると答えた人たちに共通していたのは「疲れる」という意見。局所的にはやり過ごせても、「適応としてのキャラ」に自覚的あることが自身の息苦しさにつながってしまっている。血液型などに代表される占いが未だに大きな力を持ち続けているのは、血液型や誕生日、名前の画数などの自分では操作し得ない要素と結び付けられて「あなたはこういうキャラである」と無条件に承認されることで「適応としてのキャラ」の自覚を抑制してくれるという、キャラ自覚予防薬としての楽さ・心地よさがあることに関係しているのかもしれない。


以下は本書の刺激を受けて個別のアニメ作品について考えたこと。


・「セカイ系」という語の終焉
トレンドとしての「サヴァイヴ」。この発見によって「セカイ系」という言葉は、少なくとも批評の世界では死語になっていくだろう。メタ化・隠蔽されていないセカイ系は開き直ったただの「欲望」の産物であると断罪されてしまった。これに対抗しうるセカイ系を肯定する言論・評論が誕生しない限り、「セカイ系」に分類すること自体がセカイ系が欲望の産物であることを暗に認めることを意味してしまう。もしセカイ系的フォーマットの作品を肯定していくとするならば、セカイ系という言葉は封印せざるを得ない。もはや肯定的バズワードとしての「セカイ系」という語を用いた説明が作品の批評性を担保することはない。だが確かに、ちょっと前まではセカイ系は批評性を帯びていた。「世界の命運が彼女にかかっておりその彼女から承認されること」には、それまで想定されていた<個人-社会-世界>という段階的階層が描かれず、個人を取り巻く環境と関係性そのものがもはや<世界>であることを、<社会>を「あえて」描かないことで示していた。だが時代が経るにつれていつしかセカイ系における<社会>は、あえて「描かない」ものではなく、ベタに「描けない」ものになっていたのである。消費者側も<社会>はもはや描けないものという感覚を共有し始めていたため、セカイ系はベタに消費され始め作品が持つ批評性は失効し、ただの所有・共依存的恋愛劇に堕ちてしまった。そして、限定された環境・空間内における個々人のサヴァイヴの問題が前面化してきている現在、<世界>というモチーフすらも<個人>のモチーフと同等、あるいはそれ未満のものであるとしか描けなくなってきているのである。だが、無条件に承認されるようなセカイ系的なフォーマットの作品自体はこれからも生み出されていくと思われる。なぜなら確実に需要があり、売れるからだ。物語が<社会>の描かれないシリアス系から、もはや<社会>が描けない日常コメディ系になっただけで、このフォーマットは延々と受け継がれていくだろう。


・「ポスト・エヴァ」の終焉
本書においてはあまり語られていないが、『ラーゼフォン』(2002)、『蒼穹のファフナー』(2004)、『交響詩篇エウレカセブン』(2005)、これらを「ポスト・エヴァ」の文脈で捉えようとすると正当な評価が難しくなる。細部の物語構造やモチーフにこだわり比較・検討すれば当然類似したものは見つかるだろう。しかしそれは「エヴァである/でない」と思考停止した感性と批評精神の鈍い物言いでしかない。もっと本質的なテーマやモチーフ、そして宇野の視点のように「織り込み済み」すなわち物語の前提部分にこそ着目すべきだ。そう「コミュニケーション」である。『新世紀エヴァンゲリオン』は正体不明の使徒(異形の他者)から防衛するために行動をしなければならない。その行動こそが自己承認と同義であり、異形の他者は無条件・無批判な排除の対象であった。だからこそ自身と「同じ」だが暫定的な敵でもあるカヲルの存在に対しシンジは悩み困惑した。『ラーゼフォン』では皆が「同じ」であることが前提となっており、しかし次第に侵食されていき中身は敵(ムーリアン)か味方かわからない状態となっていくなかで排除をめぐる自身の葛藤がテーマとなっている。『蒼穹のファフナー』では異形の他者(フェストゥム)との戦闘が不可避なものとして前提に提示され、戦闘を重ねるたびに敵側に近づいていってしまうというジレンマをどう克服するかをテーマとし、次第に対話と共存の道を見出している。『交響詩篇エウレカセブン』ではもはや「日常」が前提となっており異形の敵は存在しない。その代わり、一番身近な異形の他者(異性)との対話と共存という恋愛をめぐるコミュニケーションがメインテーマとして提示される。さらにこれを土台として「成熟」とは何かということを主人公及びサブキャラクターを含めて模索し、不十分ながらも回答した意欲的作品である。個人的には『エウレカセブン』をもって「ポスト・エヴァ」をめぐる一連の言説にはケリがついたんじゃなかろうかと思っている。『エウレカ』が出した「傷つけ合ってもコミュニケーションしていくしかない」という回答。コミュニケーションの問題は普遍的であり宿命的、だからこそ不可避であることを前提に受け入れて前進するしかないことが『エヴァ』から十年経って改めて提示されることで『エヴァ』の特殊性・特権化を謳う言説はようやく失効した。見方によってはこれを『エヴァ』への回帰だと言う人もいるだろう。だが、アニメ界は「サヴァイヴ感」の到来による「引きこもり/心理主義」の後退もあって、やっと『エヴァ』の呪縛から解放されたのだ。既に『エヴァ』の時代は終焉し、社会状況とは切り離された一コンテンツとしてしか存在していない。もう『コードギアス』の時代が始まっているのだ。


・なぜ『涼宮ハルヒの憂鬱』は処方箋となりえないか
涼宮ハルヒの憂鬱』はテレビシリーズを一回通して見ただけだ。なぜ繰り返して視聴しないのか、理由は「見ていられないから」。『ハルヒ』を観ている時の痛さはこの作品のあまりの「優しさ」ゆえだ。学生時代につながりを感じられる共同体験が乏しかった者にとってハルヒはまさに自分自身の投影対象となってしまうが、迂回した(メタ)セカイ系共依存的承認構造を隠蔽しながらもさらに強化して「所有」欲求を満たすと同時に、過剰に散りばめられた教科書的「萌え」要素を「あえて」消費しているかのように錯覚させる。キョンという着脱可能な「自己反省」緩衝材はあまりにも優秀で親切であり、このフィルターを通すことによって視聴者自身が憧れながらも成しえなかった過去の時代をハルヒキョンたちに代替体験させることで、過去を反省することなく昇華させることができてしまうのである。この構造に無自覚な時はいいが、一種の「ズルさ」を自覚してしまったら最後、過剰に盛り込まれた「萌え」要素群をベタに消費することすら恥ずかしくてできなくなってしまう。青春時代を謳歌していない(できなかった)者たちにとって『ハルヒ』は、あまりに「痛い」と同時に居心地が良すぎるのだ。それゆえ視聴者は自身の「悶々としたノスタルジー」とハルヒたちの「小さなイベント」による無尽蔵の相互備給関係によって、一種の「終わらない青春時代」を擬似的に体験しているのである。ここには現実世界へコミットするような比喩的・示唆的表現は一切無く、あるのは居心地のいい作品世界への逃避が選択肢として提示されるのみである。アニメの『ハルヒ』は二期が予定されているが、この作品の娯楽性を追及する安易な方法論として、一期の結末を無かったことにしてそれまでの恋人未満の関係性のまま「小さなイベント群」をこなすという無難なやり方がある。もしこの安易な方法論を展開せず、関係性を発展させた状態で物語を展開し何らかの回答を提示できたならばこのシリーズ作品の批評性は確実に高まるだろう。


・『コードギアス』は現代の処方箋となりうるか?
正直に言うと『コードギアス』は一期しか見ていない。なぜ二期を見ないのか、自分でもその理由を整理し切れていないが、おそらくは描写不足と自身の読み込みの甘さに拠るものである。『DEATH NOTE』の主人公である月は NOTE を手に入れる前は強固な信条を持った人物であり、能力を手に入れたことで決断主義的性格がより強調されて発現しただけと解釈できる。そして冷徹な決断主義者として戯画的に描いて最後には敗北させることで、逆説的に決断主義が何も生まないことを指摘しその態度を批判したものであった。「動員ゲームをどう止めるか」という命題について物語内では回答しきれていなかったが、その決断主義に対する一貫した批判的態度をもって読者へ警鐘として伝わるに十分だったはずだ。一方の『コードギアス』の主人公であるルルーシュは「ギアス」能力を手に入れる前は現状を追認し受け入れることで処世するという、いわば碇シンジ的諦念主義に覆われた人物だったはずだ。それが「ギアス」を手に入れてからはその能力を利用し世の中を是正しようと夜神月決断主義へ移行している。両主義の間で揺れ動く様が人間らしくて素敵!ということだと思うのだが、移行の背景と動機の描写があまりシックリきていない。ルルーシュが敵視しているブリタニア皇帝は生粋のサヴァイヴ主義者であり「闘争し権力を志向しないものはクズだ」と断じる決断主義者であって、ルルーシュが動員ゲームに自ら参加することは嫌悪しているブリタニア皇帝を肯定することになりはしないだろうか?このあたりに葛藤というか描写というのが不足していたように思う。これは物語内ではなく視聴者が補完すべき問題なのかもしれないが「能力あるものが主張するならば動員ゲーム的サヴァイヴに参加しなければならない」と前提に基づいているのだろうか?
ルルーシュとスザクの対比について。スザクは内部からの変革を志向し、ルルーシュは闘争による変革を志向する。『DEATH NOTE』を援用すれば、スザクは夜神月的な「大人の」、ルルーシュは「子どもの」選択をしたように見える。しかし『コードギアス』物語では動員ゲームを志向するルルーシュはダークヒーローとして支持を受ける一方で、スザクはただの「甘ちゃん」に成り下がっている。これは視聴者間に共有されている「もはや動員ゲームは不可避であり、逃避するスザクはへたれだ」ということなのだろうか?もしこの安易な二元論に基づいてルルーシュとスザクが対比されているのだとするならば、民衆(視聴者)は「内容の如何は問わないから、強力なリーダーが欲しい」だけなのではないか。事実、現実の政治にも同じことが起こった。「生き残っているから強い」、「支持率が高いから強い」という民衆の思考停止による認識の反転現象は、動員ゲームの安易な肯定と煽動政治の復活を意味しているのではないだろうか。このあたりの「強力なリーダーに従うことは気持ちいいんだ」という開き直りの「前提」があるんじゃないだろうか。最終的に、この前提テーマに抗うことを示そうとするならば、ハルヒのような「身近な小さな幸せに気づくルルーシュ」か、夜神月のような「力に溺れて破滅するルルーシュ」しか描けないのでは。大河ドラマハルヒ的結末を迎えることは視聴者が許さないだろう。かといって大河ドラマが破滅してもらっても困る。『コードギアス』は今までの作品とは違う結末を迎えることができたのだろうか?
お、こう考えてきたら二期が見たくなってきたぞ。




レビュー 『奥浩哉 短編集 赤/黒』

「奥・・・あ〜『GANTZ』の人ねっ、あの作品あんまり好きじゃないんだよなぁ、長くて。でも乳描くのはうまいよね」
この漫画家作品にとくに思い入れが無い人の印象はだいたいこんなものじゃないでしょうか。
連載中のマンガは多少なりとも溜めや演出(もしくは引き伸ばす)のために、コマを無駄に大きく使うカットが生まれやすい。気楽に読んでいる者にとっては、大事なシーンは大きなコマ、そうでもないシーンは小さなコマ、と単純化して理解できるしスケールを大きく見せるためにも便利なんだけれども、コマを大きく使う技法を乱発されると読者も混乱しちゃうし白けてしまう。私が『GANTZ』にハマらなかったのはこれが要因かな。まぁこの際、設定がどうのこうのいうのは無粋というものでしょう。好き嫌いというコトで。
一方、短編という形式ではあらかじめページ数が決まっている。そこにある程度の長さと強さ、それにオチまで展開させなければならないのだから、当然のように冗長的描写は省かれ、コマは小さくなり、展開が早くなるわけです。「同じ漫画家なのにこんなに違うものが生まれるかね。」そう思わせるくらい、形式が異なるということは思考過程や制作・展開方法に影響し規定する。だから短編集というものは大型連載の縮小版ではありえなく、より濃密なものになりやすい。
少年誌を中心に「連載をリアルタイムで読んでいること」に意味を見出し始めてる作品(読者も)が増加傾向であるのに対し、今現在、絶賛連載中の長期作品が連載終了後にどのような評価が下るのか、売上部数のみではなく歴史的な資料性・作品性を含めた場合、はたして。
それぞれに魅力はあるけれど、短時間で読める、集めやすい、なによりその漫画家の力量が如実に表れるという意味では「短編集」に分があるんじゃなかろうか。アーカイブ性も高いしね。
短編集では大型連載とは異なった様々な物語や画風が見られるのも嬉しい。『GANTZ』に至るまでいろいろやってるんだぁと感心しますよ、きっと(個別の話は以下で詳述)。


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奥浩哉短編集 赤 1 (奥浩哉短編集) (ヤングジャンプコミックス)

奥浩哉短編集 赤 1 (奥浩哉短編集) (ヤングジャンプコミックス)

「好」7編・「嫌」3編・「糸」・「雑」・「熱」
「好」「嫌」は同性愛を扱った作品。といってもヘヴィでドロドロした恋愛じゃなく可愛くポップな描写。普段はクール/ビューティな奴が、よく見ると実はカワイイ系にときめいちゃって、二人きりの時はキャラが変わっちゃうという構図は一緒。これは現在で言えばツンデレにあてはまるだろうか。
「嫌」の設定がなかなかおもしろい。
ケンカが強くてさらにカッコイイ鈴木(男)は華奢カワイイが芯の通った佐藤(男)に恋をしてしまう。そしてさらに、佐藤にそっくりで精神は男?だが男になりきれない小夜(女)が登場する。鈴木は佐藤と小夜の間で揺れるというストーリー。
見た目が一緒で性格も一緒だったら異性を選ぶんだろうけど、もし見た目は一緒だが性格や中味の好みが同性の方だったとしたら?これはアリなんだろうか?
社会通念上とか常識で考えたらそもそもそんな状況「ねーよw」なんだろうけど、if の世界を楽しむのがマンガですから。


  おもしろかった「嫌」の一節


  小夜「・・・あのね・・・・・・おい・・・」
  小夜「・・・・・・あ・・・」
  鈴木「なんで拒まないんだ・・・・・・気持ち悪ィ奴だな・・・」
  小夜「・・・・・・え?・・・」
  小夜「自分からしてきたくせにっ!! なんだよっ このホモっ」


関係性を 攻め/受け で分ければ鈴木は追いかけるのが好きな攻めだった。だから拒んでくれる佐藤が好きで、拒まない小夜は物足りなく感じてしまうわけ。無いものねだりは悲しいね。
鈴木みたいな人はリアルでも割と多いんじゃないだろうか。追ってる時は燃え上がっているが、追われる立場になると途端に醒めてしまうパターン。「同性愛」というと突飛なテーマのように見えるが、こういうコミカルだが細かい描写で共感・感心させて作品をちゃんと地に足付けているところがうまい。
難を言えば服装かな、制服を描いてる時は目立たないんだけど私服がモロに90年代だからさすがに古く見えてしまうよ。アニメにせよゲームにせよ、カッコイイ/カワイイ服が描けるかどうかは結構重要なポイントだと思う。ここでズレてしまうとマンガと読者の心理的距離が開いててしまうことにもなりかねないから。でも漫画家が全部やるのは限界があるよなぁ、実物をデッサンするにしても服のチョイスにはセンスが要るだろうし。服が良いマンガは外注とかしてるんだろうか。
あと、この漫画家は都市的な背景を描くことが多いんだけど「糸」は舞台が山間部に行ったりして結構新鮮に感じられた。ハッピーエンド?だし、こういう素朴な感じもいいね。

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奥浩哉短編集 黒 2 (奥浩哉短編集) (ヤングジャンプコミックス)

奥浩哉短編集 黒 2 (奥浩哉短編集) (ヤングジャンプコミックス)

「黒」5編・「缶」・「へん」4編・「宿」2編・「変」・観察日記

「黒」はヴァイオレンス路線。映画『ダイ・ハード』の影響を受けてるらしいっすね。走ってる電車から突き落とされる、膝の裏を刺される、肘関節を撃たれる、作者はこういう文字にするだけでも嫌〜なカンジの傷み方を発想して画にするのがうまい。
普通のアクションマンガの暴力は打撲系の傷み方がほとんどで、顔やボディを叩かれたとしてもそれは日常的な暴力イメージを喚起するに止まるためにそんなに「うわ〜痛そう・・・」とは思わない。なかには急所を容赦なく攻めるアクションマンガもあるけど、それはテーマが既に総合格闘を志向している為に読者もある程度覚悟して読めるわけ。目潰し、仏骨を突く、人中に一本拳を叩き込む、こういった格闘用語を混ぜるだけであら不思議、嫌なカンジが抜けていくでしょ。急所破壊は格闘技という人体破壊術の英知が詰まった、ある種の高尚さを伴うんですね。しかもこれらは格闘家同士が対峙した時に使われるものであって一般市民が被ることはない。こういった暴力の指向性についての前提と合意があるからこそ読者は痛がらずに読める。奥浩哉はその暗黙の了解を堂々と踏みにじるから読者は嫌〜な感じになり痛がることができるわけ(褒めてます)。
「へん」は粘膜感染する性転換症状の物語。男だった鳥合は発病者からその病気をうつされて女になってしまう。大本(男)は鳥合に一目惚れするが、そこに鳥合が好きだった長崎(女)が絡んでくるというお話。
  

  その一節


  長崎「(電話)うん うん 10時には着くから うん」
  大本「10時前に・・・・・・帰っちゃうんだ・・・」
  長崎「あたし・・・・・・軽くないから」
  大本「・・・・・・・・・」
  長崎「・・・・・・・・・」


画がないんで表情が伝わらないかとは思うが「・・・」でこれだけ含蓄ある時間と空間、そして沈黙という言葉を表現しているのが素晴らしいね。沈黙に対して言葉で返すのではなく沈黙で返す、いや返す言葉が無い。
国語の先生のように「ハイ、ではこの・・・・・・に適切な言葉を入れてみましょう。」なんて問いが如何にナンセンスでマヌケなことかこの一節だけで分かります。言葉が無いから・・・・・・なのです。それだけです。登場人物は確実にある感情に基づいて沈黙しているわけですが、読者にとって正解はありません。おそらく・・・・・・に何が込められているかを考える行為は、考えている本人を映す鏡の作用があるでしょう。他の読者に聞いてみたいものです。
あと「へん」での大本もそうだけど、特に「観察日記」楠田(男)の眼の描き方。目頭まで強調した人形のような目、そしてグロテスクなまでに詳細に描写された耳。「狂気」「威圧」「ヤバイ」といった情況を一つの画で効率的に表現している。
冴木(女)の描き方はもはや『GANTZ』そのもので、極端なほどに顔の下部に集中したパーツ、卵型の輪郭に前髪パッツン。この話で美人キャラと狂気キャラ制作の方法論が既に確立している。
ストーリーは拉致監禁系の話でストックホルム症候群と記憶を扱ったもの。精神というものがいかに脆く、簡単に崩壊してしまうのか。本人たちが幸せそうに微笑んでいればいるほど、第三者である読者には強烈な違和として深く印象付けられる。またその状況から抜け出せたとして、第三者の正義感は満たせるだろうがはたして本人にとっての幸福だといえるのか。記憶の封印、忘却という無意識の行為が前向きな推進力として描かれるのに対して、観察日記というデータとしての記録がその足枷として描かれている。
陳腐な言い方だけど、事実をそのまま真実にする必要は無い。都合が悪ければ忘れてしまえばいいよ。読む人にとってはキツイかもしれないんで、そういった類の話に耐性が無い人は飛ばして読んだ方がいいかもしれないです。

レビュー 『デビルサマナー 葛葉ライドウ 対 アバドン王』

フランスの哲学者リオタールは「大きな物語の終焉」とポストモダンを表現した。


あらゆるモダン(近代)文化における活動は、
あくまで既存価値観・規範をもとに「反抗」「破壊」するものであった。
それまで無価値として扱われていたものを有価値に転換する。
あるいは有価値と思われていたものを扱き下ろす。
モダンにおいては様々な価値観が入り乱れるが、確かに人々は同じものを見て「同じ世界」を生きていた。
価値観をめぐって闘争し、新たな規範を手に入れようとする。
ただひたすらにどこかにあるであろう真を探し求めるのではなく、真を自らの手で勝ち取ろうとする。
各々は己の眼にしたがって世界を見、そして己の信条にしたがって世界を変えようとする。
すでに確固とした世界が存在するのではなく、人と人とが衝突しあいながら世界を紡ぎだす。
己の見方によって世界はいかようにもそのカタチを変える。
世界ありきではなく、人が生きていた時代。


ポストモダン(後期近代)は「反抗」「破壊」といった行為を許さない。
いや、そのような行為自体が不可能に近いというべきか。
同じものを見て「同じ世界」を生きる時代から、違うものを見て「それぞれの世界」を生きる時代への転換。
同じ眼を持つ者、同じ信条を持つもので寄り集まり、世界は一極化と同時に細分化された。
眼が違うなら、信条が違うなら、「排除」すればいい。
ここには「排除するならば、排除されるかもしれない」という覚悟とリスクを課した闘争は無い。
抗わないなら、従うのみ。
従うならば、抗わない。
各々がそれぞれの世界に「所属」し、その世界の中で一生を終える。
「闘争」運動も己の所属する世界内にとどまり、所属しなくなったとたんに無関連化してしまう。
それぞれの小さな世界は交わることなく並存し、横断的で大きな変革は発生しない。
世界を変えるのではなく、最適化された世界へ移住する。
人ではなく、世界ありきの時代。


小さな世界は、大きな世界を構成する一細胞となり、巨大な生態系を創りあげる。
だが、その一細胞すら代謝されない巨大な生態系は、緩やかに死へ向かうのみである。

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・世界・時代設定。
大正という年号は短いものであったが、しかし、明治時代における西洋文化到来を日本のものとする咀嚼期間として必要不可欠な時代であった。
西洋でも東洋でもない、大正というロマン文化。
それぞれの個人が自らの方向性を模索すると同時に、世界もその方向性を模索する時代。
この時代設定だけでいくらでもストーリーがつくれるだろう。
「生きること」を真正面から主題とするアトラス的ストーリーと大正時代の相性が抜群にイイ。
スターウォーズが未来設定でないことと同様に、現代という時代設定では古臭く感じられてしまう物語も、過去という時代設定によって郷愁や憧れをもって物語に接することができる。
都市と田舎、共同体といった題材に説得力や強度を持たせるためにもこの時代設定は不可欠だ。
裏を返せばこの時代でなければ描けない題材といってもいいだろう。
現実と地続きでない完全別世界のファンタジーは「なんでもアリじゃん。」と思って醒めてしまう自分のような人でも、このような「ありえたかもしれない世界・時代」は拒否反応どころかワクテカさせる。
どうも私は人間と妖怪・悪魔・異形のものが同居している世界観に弱いらしい。



・人物描写
和装・洋装が組み合わされ、モボ・モガといわれる洒落者たちが闊歩している都市部。
その一方、独自の規範と慣習が色濃く残る地方部。
共同体存続のために己を犠牲にすることへの迷い、迷える者を身内に抱えるものの苦悩、救うべき共同体構成員への疑念。
「よそ者」を拒む村人の描写が後々になってストーリーにとてもよく活かされている。
根拠無く既存の価値観に寄りかかり、都合のいいときだけ利用しておいて、その価値観によって問題が起こるとその長に全責任をなすりつける。
こんな自分の生に「責任」すら取れない足の引っ張り合いだけをする田舎者根性丸出しの人々を、はたして救う価値があるのか。
そして、既存の慣習を頑なに受け入れ、自分を犠牲にして村人を助けようとする茜をどう捉えるか。
また、この茜の判断によって、弾は力を得ることで「先人」の上に立ち、彼女を救おうとする。
この弾の判断と責任をどう考えるか。


・主題設定
キーワードは「運」「希望と絶望」「きっかけ」だ。
ツイてるツイてないという「運」の対義語を「努力」として単純化していないのところに好感が持てる。
確かに運によって道が拓けることはあるだろう、だがそれは一瞬の出来事だ。
移ろいやすく脆いからこそ、運。
行き過ぎた運は反動を起こし、運を操作しようとする者は破滅を招く。
運に頼らないことを通して描くことによって、暗にスピリチュアル批判にもなっている。


己の希望によって、他者に絶望をもたらすとしたら。
己の絶望によって、他者に希望をもたらすとしたら。
この問題に善悪や正義は関係ない。
善悪や正義はただ見ている視点が異なるだけだ。
自身の我を通すことは少なからず、他人を傷つけ絶望に追いやる可能性を孕んでいる。
他人を巻き込む自身の行動には必ず「責任」が伴うことを覚悟しなければならない。
行動の責任が何たるかを問うことで、選択と行動が不可避であることを改めて示している。


シナドはしきりに「ライドウを捨てる」ことを強要する。
自身の選択と行動は「ライドウ」という役目に拠るものなのか、はたまた「本名」に拠るものなのか。
捨てることが可能な役目に拠る選択と行動にどれほどの「重さ」があるのか。
だが、人々に与える影響は自身ではなく自身の役目に拠るものの方が大きい。
人々が「変わる」きっかけをつくることに徹して結果のために滅私するか、
人々と衝突しながらも己個人の信条を通してプロセスまで含めて「変える」のか。
はたして自分ならどのような道を選択するだろうか。


・総評
RPGは主人公のためにつくられた世界になりがちだが、主人公が動いて物語も動くのではなく、主人公はあまり喋らずに周りによって物語が動いていくことによって、救世主感を押し出すことなく登場人物の心情描写読み込みをも促進させている。
Amazon のレビューでも高評価なのがうなずける内容。
システムのレビューばかりで物語に対するレビューが無いのはツッコむ余地が無いほどに練りこまれているから、と解釈してもいいかもしれない。
前作はプレイ動画を観ただけで未プレイだったが、今作は主に戦闘場面が進化して爽快感を伴うのでストレスが溜まりにくく、一定の戦略も要求するのでアクションと頭が同時に楽しい。
また、モブや悪魔の会話内容はあいかわらず遊び心があり、別件依頼があることで本筋の重さを相殺しているが、
制作陣の恨み節がこもっているとすら思える物語展開と本筋の強烈な問いかけは顕在。
これを反映するように、物語中は選択肢が多くマルチエンドなのでプレイヤーの性格が出る。
ちなみに私はラストダンジョンにある選択肢で、8段階あるうち最も chaos 寄りという結果だった。
「自分の気持ちに正直でいられるがそれゆえに周りに敵を作りやすい」
これはあってるのかなぁ。


マニアクス・クロニクルエディションと併売は諸刃の剣的な手段だが、この販売戦略はアタリだ。
前作の悪評を覆すとともに離れていた客層も食いつかせた。
内容が充実していなければ反感を買うだけだっただろうが、他シリーズのプレイヤー達をも唸らせる作品に仕上がっている。




2008 ニコニコ 雑感 まとめ

私はいわゆるニコ厨だ。
だが、ニコニコ内部における独自の文化形成過程にはあんまり興味が無かったりする。
特に興味があるのはその設計思想だ。
この観点はすでに濱野氏の「情報環境研究ノート」によって考察されてるが、まとめれば、過去時制におけるユーザーの痕跡をデータベース化し現在時制においてそれらをまとめて再生するというものだ。
この「擬似同期型アーキテクチャ」は閑散状態の前面化を起こさずに、いつでも祭り状態を作り出す。
インターネットという非同期プラットフォーム上に、擬似的に同期環境を生み出すという設計思想はかなり画期的でこれからの潮流にもなりえると思うのだけど、結局注目され語られるのはその内部の細分化された「文化」だったりする。


http://wiredvision.jp/blog/hamano/200708/200708161216.html



まぁでもたしかにニコニコの文化はおもしろいのだ。
初期にはもろに「2ちゃんねる」の動画版とされていたのに、誰に決められることなく徐々に独自の路線を突っ走り始める。
膨大なユーザー数を背景に、あちこちに散在していた個人配信者たちはニコニコへと主戦場を移し始め、反応が日々更新されるアーキテクチャDTMの発表場として最適だった。
最近ではVOCALOIDユーザーがパッケージCDに名を連ねるようになったりと、萌芽だったものは実をつけつつある。
しかも、これらの日進月歩(進化?)の変化はここ2年足らずの間に起きており、ユーザーはこの現象をリアルタイムにしかも無料で観察できるのだ!
こんな遊び場はほかにない。


だが既に「あえて」楽しむというような旧世代的な消費(兄貴動画!)はなくなりつつあり、好きか嫌いか・スゴイかスゴクないかというようなベタな消費にはなりつつある。
けれど同時に、制作者側である者の総体的スキルは確実に向上し、ベタにスゴイモノが多く生まれている。
制作者たちは従来の領域に安住するどころか、今度は可能性を求めて「越境」をはじめ、それに従い消費者たちも越境し始める。
ニコニコという場はその現象を促進する。


誕生でも発見でもなく、越境が始まったんだと思う - 未来私考



VOCALOIDは聞かず嫌いだったのだが、その楽しみ方はいかようにもある。
音楽を聴くだけでなく、その勢力地図をみるという楽しみ方である。
VOCALOIDの分野は分業制が進んでおり、作詞する人・作曲する人・画を描く人・mixする人・PVをつくる人・「歌ってみた」人、実にさまざまだ。
なかでも特に重要な位置を占めてきたのが mixer である。
このカテゴリが成熟してくるにつれ個々の技量は向上したが、
それらがうまく mix されなければハイクオリティのコンテンツは生成されない。
○○P(プロデューサー)として個人がすべて管轄する時代は早くも過ぎ去り、UnitやProject単位での活動が主流となってきているのである。
だが「歌姫論争」にあるように、作成される楽曲の方向性をめぐっては賛否両論である。


初音ミクという神話のおわり - 未来私考


あくまで印象ではあるが、確実に、必ずしもミクが歌わなくともいい楽曲は増加傾向にある。
個人的には「新たな分野への挑戦の気骨」を評価の基準としたい。
以下はその評価基準に適った作品群である。
いいなと思ったらProjectやmixerに注目して動画を検索してみるのも一興だ。




高速打ち込み 暴走P



ユーロビート ぶっちぎりP



ラップ おやつP



piano jazz OSTER project



ゴシック OSTER project



ポップ・レクイエム 小林オニキス



民族音楽 ゆにめもP



プログレ いーえるP



テクノポップ・ハウス livetune



malo



doriko



番外編



とかち三賢者



未来派P



あさまる+リツカ

メリークリスマス

「今年のクリスマスいまいち」


そんなあなたへのささやかなプレゼント。


  
 
http://video.nifty.com/cs/catalog/video_metadata/tagview/lst/srt_new/pgcnf_9/1.htm?tag=%83%7E%83%62%83%68%83%69%83%43%83%67%83%8A%83%93%83%4A%81%5B%83%93


        泣くことも一種の快楽である
                         ミシェル・ド・モンテーニュ




YouTube ダウンタウン総集編


        笑いは人類の財産である
                         フランソワ・ラブレー




PVで振り返る、「誰でも知っている洋楽サビメドレー660曲」 Vol.01 - ニコニコ動画
最近の曲に疲れたあなたへ 完 - ニコニコ動画


細かいことを考えて悩むことがいかに無意味かっていうことは
                            多くの音楽が表現してるよ
                                  リリー・フランキー