「なっとく」の判断について

「納得」という言葉が指し示す領域は実に広い。
論理的な「理解」という理性面のみでもないし、かといって「共感」といった感情面のみでもない。
言葉の起源はおそらくは感情からやってきた何かだが、それが理性と衝突した結果「納得」が生まれる。
イメージとしては、理性が感情をなだめている、といったところだろうか。
納得させる、あるいは納得させられる、という言葉には「説得」がもつような向かうべき方向性、強制力は無い。
理性を軸にとって仮に説得を100として数値化すると、数値が半分の50以上であればおそらくそれは納得の範疇になるだろう。
あくまでこの数値は例であって個々人によって違うだろうし、本当は他の諸要素を含めて判断することになる。
「納得」の対義語が見当たらないように、納得それ自体は軸になれるような言葉ではなく、行為の結果として生まれる言葉なのだ。
そして納得という行為はあくまで自発的に行うものであり、他者から強制されて至る状態ではない。
「納得させられる」にしても、その状態を規定するのは本人自身であり、それは他者には確認不能であるし操作もできない。
いくら他者の説明・説得・行為に整合性が無くとも、それに対し納得してしまった場合、「納得」の責任は本人自身にあるのだ。
納得の行為も規定も本人である以上、一度納得した物事を否定することは過去の納得した自身をも否定することになる。


では、説明・説得・行為の前にあらかじめ他者から「納得」という言葉を使われたらどうなるか。
衝突の結果として生まれるはずだった「納得」は、その生まれる過程を省略されてしまう。
総合的判断の結果だったはずの納得は、意味を持たない言葉の形骸となる。
だが「納得」という言葉を単体で使うことができない以上、行為者は納得のための要素を自ら集めるようになるのだ。
そして集められる要素たちは「納得」のために集められているため、「納得」に不利な要素は除外されることになる。
結果として生まれるはずだった「納得」が前提として提示されたことにより思考の中心軸となり、あらゆる諸要素は「納得」の価値判断のための要素として好意的にに扱われるようになるのである。
「納得」を到達点とした状態では、当然、「納得」が前提となっていなかった状態よりも期待値が下がることになるが、その分落胆するリスクは避けられる。
納得を前提にした場合、提示した側も落胆されるリスクを回避でき、提示された側もリスクを回避できてしまうのである。
そして「納得」に他者が関わらない時、それは損得勘定の問題へとすり替わる。
自分の行った行為に対して「納得」できるかどうか。
できない場合は損をする。
できる場合は得をする。
この二択になった場合、自ずから選ぶ答えは決まってしまうだろう。
だが私は自分の感性のために言いたい。
満足はおろか「なっとく」すらできない、と。




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