KOC

まるまる見逃しました。キングオブコント
でもバッファロー吾郎バナナマンの準決勝・決勝ネタが動画で上がっていたのでそこだけでも批評を。
どちらが面白かったか。
笑える、笑えない、のレベルではあまりに低次元なので技術・構成から探ってみたい。


まず漫才とコントの違いは何か。
漫才は+である。
漫才においては、大筋のストーリーに対してボケ側が余計なものを足していく作業が行われる。
その足されたものをツッコミが回収していくというスタイルが王道だ。
しかしコントではそうはいかない。
コントは−だ。
コントは欠落した状態で始まる。
ツッコミという回収作業と「見せる態度」の欠落である。


コントとは異世界を創ることである。
漫才は現実世界から出発する、コントはコント世界から出発する。
現実世界とコント世界の落差をどれくらい創ることができるか、それがコントだ。
コント=ほんの少しズレた世界、これを維持するためにはズレを現実的価値観で回収してはならない。
ズレを回収する作業が行われるたび、観衆は現実世界の価値観へと引き戻されてしまう。
ほんの少しズレた世界を疑問に思うことはあっても訂正はしない、これが鉄則となる。
回収するならコント世界内の価値観で回収すること。
コント世界内で全てをやりきることが重要なのだ。
決して現実世界とコント世界を往復してはならない。
コントは「見られている世界」であって「見せる世界」ではない。
ましてや観衆に向かって喋るなど言語道断だ。


これらの点でバッファロー吾郎は非常に漫才的なコントを展開したと言える。
異世界を創ることを放棄したのだ。
市毛良枝」「高倉健」など現実世界の語彙を引用し、しかもこれは「お笑い」という現実的ジャンルと「俳優」というこれもまた現実的ジャンルである。
結合確率の低さという組み合わせの落差だけであって内容の落差が無いに等しい。
一笑い一笑いを成立させても、その一笑い間に連続関係性がないために一つの大きな笑いには繋がっていないのだ。
コントの五分間とショートコント詰め合わせ五分間が異なるのは明白である。
超現実的語彙を引用し、現実世界の笑いでもって観衆に向かって訴えかける。
これは一つの技術であり、他が真似できない芸風である。
これは当然リスペクトされるべきだし、わかる人にはわかるからこそ熱狂的支持者が居る。
だがしかし、舞台はキングオブコントなのだ。
「とにかく面白いコント芸」がキングになれる。
コントとは技術でも構成でも芸暦でもない、ネタなのだ。
余分な要素をそぎ落とした「ネタ」で評価されなければならない。


決勝ネタについてはバナナマンも同罪だ。
宮沢りえ」という現実世界の語句を利用した結果、コント世界の住人と芸能界における「バナナマン」が混同してしまい非常に中途半端な世界を構築してしまった。
しかも「宮沢りえ」を何かのネタと結び付けることなく、本人として扱ってしまうことで客も笑っていいのかいけないのか判断を棚上げさせたままの状態で五分間を悶々と過ごさせてしまう。
これは最後のオチのカタルシスのための必要条件ではあったが、代償として五分間中の小ネタへの反応を鈍くさせた。
小ネタも連続関係性を欠いたものであり、コント世界の住人としてではない「バナナマン日村」のテンションの高さだけが笑いに繋がっていた。
これはコントで笑わせたのではなく、キャラが笑われただけである。
基本的にはバッファロー吾郎と同じくしてショートコント詰め合わせの五分間であったが、言い回しのセンスはバナナマンが勝っていると言わざるをえない。
「一回ぐらい当たる」「こんなに意識したのは初めて」これらは意味内容の突飛さに頼らず、場面と言い回しの組み合わせで落差を作り出すことに成功している。
地味な要素かもしれないが、逆説的に、確かな演技力・抑揚のある構成力無くしてこれは成り立たない。
これらの要素を排除し「ネタ」だけを抜き出して勝負したとしても決して負けていないだろう。
決勝において「朝礼」ネタをやっていたら優勝していた、と思いたい。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081005-00000001-oric-ent