織田裕二における「過剰」について

織田裕二って何なんだろう。
ドラマとか映画に出るときはほぼ主役。
こんな俳優は珍しいと思う。
織田裕二の魅力を演技から探ってみる。


人と人とをつなぐコミュニケーションは「表現」。
表現されたモノを介すことで、感情や思考を共有する。
文学、音楽など表現はいろいろあるが、今回は対面時に絞ろう。
対面時に表現されるものは「情」。つまりは表情。

表情とは記号。
眉、目、鼻、口の組み合わせで情を表現する。
記号とは契約。
人類は顔に同じパーツを持っている。
自分の表情と他者の表情とは同じであるとする契約をする。

今のところ感情自体を直接共有する術をもたない。
したがって、表現された感情を読み取ることがコミュニケートとなる。
感情からの表現でなくとも表現自体が伝われば、相手は表現の元である感情までをも勝手に読み取ることがある。
それが演技。
演技もコミュニケーションの契約。
だが表情を読み取ることができる場は限られる。
自分と演技者との物理的距離が近い場合にのみ表情を視認することができる。
表情できない場ではどうするか。
発声と動作の多少・緩急。
舞台がこれにあたる。
舞台は演技者と観客との物理的距離が遠い。
よって観客は演技者の涙や仕草といった小さい動きは伝わりにくい。
それゆえ舞台には舞台の演技法が存在する。
発声法と動作の多少・緩急によって演技は記号化される。
観客と演技者とを仲介する「舞台」という契約によって、その記号は成立する。


織田裕二の演技は良い意味でわかりやすい。
舞台的といってもいいだろう。
発声と動作の多少・緩急は定型化されている。
それらによってシーンを演じ分ける。
織田演技を見慣れた者なら動作のみを見ただけでどんなシーンかわかるはずだ。
だが織田裕二の活躍場所は舞台ではなく、ドラマ・映画。
観客の目を代替するカメラが存在する。
カメラによって観客の目は織田に近づく。
見えてくるのは表情。
「シリアス」ならば硬直し、「コミカル」ならば破顔する。
皮膚が柔らかく可動域が広いため、表情の落差が大きい。
それが演技のわかりやすさを助長している。
織田の演技が暑苦しいと感じる人は、わずかな動作と顔の動きを読み取れる人なのかもしれない。
演技のもう一つの側面は役作り。
カメラが存在する場での舞台的演技では、契約が異なるために違和感を感じてしまう。
舞台と比較してもドラマや映画では、表現技法よりも感情部分の比が高まる。
そのため程度の違いはあれど、役への感情移入という作業は必要なのだろう。
役が他者である以上、役になりきることはありえない。しかし、瞬間的に役になることは可能だ。
役を理解し、役の感情を理解する。
自身の中にある「役の部分」を探し、増幅し、純度100%で表現する。
そのとき俳優は役になることができる。
織田裕二は役作りに時間がかかるタイプらしい。(NHKトップランナー』より)
役作りには2パターンある。


1、役になって自分を消すタイプ
2、役になっても自分が残るタイプ


織田裕二はおそらく 2 だろう。
役作りに時間がかかることから、役になりきることを目指しているのかもしれない。
しかしながら、本人に自覚はないだろうが、何の役をやっても織田裕二
織田の役の強度が強くなってしまうために、他の役者を食ってしまう。
これが脇をやれない理由か。
しかしながら、織田の強度とはなにか。
強烈な個性があるようでいて、つかみどころが無い。
織田の中身について、私たちは知っているだろうか。
織田裕二のドラマ・映画以外でのテレビ出演はきわめて少ない。
唯一『世界陸上』。
世界陸上』での織田を素であると仮定しよう。
・・・過剰。何が過剰なのかはうまく表現できないが、とにかく過剰なのだ。
素の状態で既に演技っぽい。

織田はデフォルトで日常表現レベルを超えている。
何をやっても織田、の理由はこのためか。
演技において役作りをしたところで、役を表現するにも織田本体のフィルターを通しての表現。
フィルター自体が「過剰」な織田本体だから、役を濾過しても織田エッセンスが抽出されるだけ。
ただただ本体が過剰であっただけなのだ。
織田は悪くない。
世界陸上』の織田裕二好きに悪い人はいない。(根拠はない)
役における織田要素とは、織田本体の「過剰」だったのだ。


ちょっとバカにしたような感じになってしまったけれど、
織田裕二には「ポスト松田優作」にならないかと微かに期待している。


織田裕二 - Wikipedia
松田優作 - Wikipedia