納豆をめぐる対立の表徴パタン

納豆は踏み絵である。
食べる文化と食べない文化。
一般に、関東圏以北で食べられ、関西で忌避される、といわれる。
また同地域であっても、納豆の食べられる人、食べられない人の溝は深い。


地域文化の対立として取り上げられてきた納豆問題であるが、
対立が表徴するのは個人対個人のレベルである。
ここで特徴的なのは、両者の対立構造が対称でないということだ。
一般に対立というと、対立する両者が互いに攻撃と防御の応戦で成立する。
しかし納豆の場合、食べる側の攻撃はない。
つまり、食べない人に理解する姿勢を持ち、納豆を食べるよう強制をしない。
(家族といった近親間においては、その家の権力者が納豆を食べる場合この限りではない)
一方、食べない側は食べる側を批判する。
腐った豆と揶揄し、臭い、と拒否反応を起こす。
批判の対象は納豆の存在というよりは、納豆を食べる人の人格に及ぶ。
「納豆の存在はまあしょうがない、しかし納豆を食べるあなたは・・・」
納豆を食べない人にとっては、納豆を食べる意味がわからないのだ。
また、納豆は自分の意見を言い易い傾向にある。
納豆は嗜好が分かれる、ということがほぼ常識となっているために、
「私、納豆がダメなんです」と自分の嗜好を表明し易い。
(納豆生産が盛んで納豆食が文化となっている地域は難しいかも)
とりあえずビールでいいでしょ、の文化と比較してもこれは健康的である。
そして特筆すべきは、熱狂的納豆好きがいないとき、パワーバランスにおいて納豆を食べない側が食べる側より優位に立つことである。
親密な間柄では「ちょっと、臭いんだから納豆食べないで」と注意したり、
知人程度の親密さでは特に相手に気を遣うため、食べる側が相手の嗜好を知っている場合、納豆を食すことを控えるのだ。

これによって両者が対峙したとき、納豆を食べる人はそのことを隠蔽する指向に、食べない人は表明の指向になる。
両者の対立は非対称の構造を抱えている。勧める場合は半ば強引に説得する攻撃的な形となり、両者の対立は激化する可能性もはらんでいる。
食べる人でも臭いが気にならない程度の人がいれば、それがいいという人もいる。
納豆が嫌いな人にはそれがわからんのですよ。
また、味覚・嗅覚は誤魔化しようがない。
近年の健康ブームに乗って納豆は認められてきてはいるが、納豆を勧めることは構造的にも感覚的にもなかなか難しいといえる。


納豆 - Wikipedia


http://www.takanofoods.co.jp/qa/soudanshitsu/soudanshitsu.html
http://www.kume-natto.jp/information/