レビュー 『いのちの食べかた』

triqster2008-05-16

                    |いのちの食べかた|
  







映画というものには「臭い」がない。
普通に映画を見ているときには別段意識することは無いが、臭いが無いことすら「無機質」の演出の一部となりえ、刺激が視覚に止まってしまうことは映画の限界ともいえる。
だがこの映画に限ってはこの演出を肯定的に捉えるべきだろう。
もしもこの映画に臭いがあったとしたら、最後まで作品を見通すことができなかったかもしれない。


体験というものの定義は難しいが、あえてするとしたら己の身体の五感を通しての経験としよう。
映画を見る、ということは「視覚の経験」であって体験ではない。
一つの感覚に特化しているともいえるが、欠落している感覚のほうが多いともいえるのだ。
現代は視覚が最重要視され、可視性過剰ともいうべき状態であるといえる。
個人的経験よりもテレビ・ネットを通しての代替経験値が勝ることがあたりまえであり、すでにその状態が普通になってきている。
見えるものが多い分、見えなかったものに直面した時の驚きは大きい。
ある畜産酪農家の話によると、厩舎見学に来た小学生は『牛乳が温かい』と驚いていたそうだ。
その小学生にとって牛乳とは、スーパーでパック詰めされ冷たくなったものだったのだ。
これは低年齢層に限った例ではないだろう。
大人とみなされている人々にとっても同じ感想を抱くのではないだろうか。


自分の家で農業をしなくとも、お金さえ払えば何でも揃う。
産業は完全分業化し、コストの削減のために大量生産せざるを得ない。
生産者にとってそれは「仕事」であり、そこで生産されている植物・動物は「経済的」なものとして扱われる。
流通・消費者にとってもそれは同じで、食べ物=能動的にいただくもの、ではなく「購入するもの」となっており、消極的感情としての「安心」が経済的な購入の対象となっているのだ。
そこに「いのち」の概念が入り込む余地はない。


本来、「食べる」という行為は他の生命を吸収して己の生命を構成する血肉にすることであった。
宗教によってはそれを罪と感じ、食べる生命を限定しているところもある。
だが人間も他の生命と同様に、食べることなしでは生きていくことはできない。
これは否定しようも事実であり、真理に近しいものではないかと思っている。
食べるという行為を卑しいものとして見ることは思想の自由だが、己の生命を維持するため、という消極的な姿勢になったとしてもその原罪を免れることは何人にもできない。
その思想のために他の生命を利用し、生命の価値を勝手に決め付けることは生命そのものに対する冒涜だろう。


私たちは今まで一体「何を」食べていたのだろうか?
食事の時、小さな子どもに「なんで『いただきます』っていうの?」と問われたらあなたはどう答えるだろう。




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