無題



芸術に対して「理解」という単語を用いて語るのははたして妥当なのだろうか。
表現されたものと表現したいものとは必ずしも一致しない。
表現されたものに理解を示すことは可能だろう。
しかし表現したいものに理解を示すことは可能なのか。
表現したいものが「理解されえないもの」だったならばあるいは。


芸術が評価される時、まずは既存の体系から評価される。
体系にどれだけ準じているか、また体系からどれだけ逸脱しているか。
これらの対極をブリコラージュ的に組み合わせた作品はすでに評価も体系化されており、そこには解釈を与えようと待ち構えている「解釈学的な受け手」が存在する。
作り手が女性であればなおさらだ。


同じ解釈の人が居るとしても男と女とでは解釈が指し示す領域は一致せず平行関係なのではないか。
「男に理解しえないもの」を表現しようとしたならばもはや男は何も言えない。
たとえ理解を示そうと何か言ったとしてもそれは彼女の表現されたモノに絡め獲られてしまうだろう。
その現象こそが彼女が表現したいモノだったのではないだろうか。