ええじゃないか

九月中旬に入り各地で祭りが盛んに行われている。たまに祭りを見に行ったりはするのだが、楽しさよりも寂しさのほうが大きい気がする。イベントには参加できるが、祭りには参加できないからだ。


「祭り」とはその土地に住む者たちのものである。狭く区切られた地域を単位とし、その土地の文化・信仰・伝承が色濃い。また、自分たちの祭り=自身が担い手であるという土着感覚を非常に重視するものであり、言い換えれば閉鎖的とも表現できるだろう。担い手を地元民に限定することによって、誰のための祭りか、何のための祭りかを明確にしていくことで継承していくのだ。この土着感覚のおかげでヨソとウチという認識が生まれ、地域による多彩さの維持にも繋がっている。
一方「イベント」はそれが好きな者たちのものである。趣味・嗜好を単位とし、主義・主張・思想という背景が問われることは無い。祭りの担い手のような、そこに生まれたから、という自分では操作し得ない、ある種運命付けられた背景は絶対的な意味強度を誇り疑いようが無い。だが趣味・嗜好となると、なぜか分からないけど好き、といったように言葉にすればするほど意味強度が脆くなる性質がある。これを共有しているためにイベントでは背景が問われることなく、そこに居ること、が重要になってくる。わざわざそこに居ることがその趣味を証明する唯一の方法であると同時に、そこに居ることの前提でもあるのだ。


祭りに参加する、と一口に言ってもどこまでを「参加」といえるのか。
色々な定義があるだろうが個人的には非常に狭い範囲を指し示しているように思われるのだ。「○○祭りを見に行ってきました!」、、「○○祭りの神輿を担いできました!」、、これらは祭りに参加したのではなく、イベントに行ってきただけだ。どんなにその祭りが好きでも愛していても、結局は部外者だしそう扱われる。どんなに小規模であろうと、どんなに嫌であろうと、地元の祭の担い手になることには敵うものはない。


現代では地元への帰属意識自体が希薄になりつつある。祭りでは有利に働く地域の閉鎖性がここでは不利に働くのだ。その地域に生まれたという絶対的背景によって従うべき規範をも定められたことに反発する者たち、彼らはその地域を脱出するだろう。だが脱出したとしても絶対的背景を手に入れられるわけではない。地元に居ようと都心に居ようと「なぜその土地に住むのか?」、「なぜここにいるのか?」、彼らは絶えず問われ漂泊し続けるのである。
永遠に漂泊する彼らにとっての祭りは存在しえるのだろうか。


それを生み出す方法の一つが「イベントの祭り化」である。
祭りでは限定された区域(範囲)で出生した者(人)を対象とすることで絶対的背景を獲得していた。そうではなく、イベントの祭り化は趣味・嗜好(人)を広域に拡大(範囲)させる。人と範囲の構造を逆転させることで閉鎖性を失うことなく祭りの持つ絶対的背景を擬似的に構築することができるわけだ。
日本初のレイヴ(?)である「ええじゃないか」を例にすると分かりやすいだろう。
ええじゃないか - Wikipedia
この社会現象を担っていたのは主に奉公に出ている庶民たちだ。土着性を剥奪された彼らは同じ境遇の者同士で「ええじゃないか」と、お互いの個人を問うことなくお札と参詣だけで繋がっていた。逆に言えば「ええじゃないか」レベルまで引き上げ、絶対的背景という命題を隠蔽させることで抑圧を解放しヤケクソ的快楽に昇華させたのだ。


この非土着的祭りは現代でも存在している。
仏教を基盤とした音頭や踊りは衰退したが代わりに、それは西洋文化であるヒッピー、レイヴ、またラスタファリアニズムを基にしたレゲエという適度な閉鎖性を持った文化に継承された。祭り的性格の形成には適度な閉鎖性が必要だが、規模の小ささやメディアへの露出度、アンダーグラウンド性そのものに価値を見出すこともあり、これらの文化に触れていない一般の人々にとって彼らは異端であり、時に排除の対象となる。
http://mainichi.jp/area/gunma/news/20080911ddlk10040040000c.html
このニュースに対するコメントやブログを見てもまるで親が子どもを諭すときの「ダメだからダメなんだ」というような頭ごなしのものが大半だった。これらがまさに社会の縮図なのである。
漂泊する者たちはこれらの発言をする者たちのような伝統的・妄信的規範から抑圧されているのであり、イベントの祭り化によって脱却を試みているのである。抑圧者たちはそこで何か問題が起これば「それみたことか」と規範の再強化に乗り出すわけだが、そこに明確な論理が無いことに気付く者は少ない。抑圧者たちもまた、既存の規範を信じきることができないからこそ他を排除しているだけなのだ。そうしなければ自身が漂泊してしまう。


誰しもが祭りに参加する権利があると考える。彼らにとっての祭りの場そのものまで奪ってしまうのか。
イベントの継続維持には観客動員が必須だ。だが皆が皆、その文化思想に共鳴しているわけではない。観客を動員すればするほど「にわか」が増えていくのである。文化的にわかだけでなく分別さえできないマナーにわかも増えていくる。彼らは自分たちが祭り・イベントを作るという意識が希薄であり、ただのお客さんなのだ。彼らを抑圧者たちと同じように排除してしまうのか、客と割り切りボッタクるのか、教育していくのか。彼らもまた、一枚岩ではない。


奇しくも相撲界も同じ問題を抱えている。もし裁判になるのならば大麻取締法そのものの妥当性が問題になるのは間違いない。若ノ鵬たちには申し訳ないが今しばらく注目の的になっていただこう。