アイドルの境界線

モー娘。消滅の危機!? 『ハロモニ@』が打ち切り!|日刊サイゾー


国民的アイドルだったはずのモーニング娘。はどこから転換期を迎えたのか。
いや、そもそも彼女たちは「アイドル」だったか?


アイドル - Wikipedia


アイドルの系譜を見ていくと「歌手活動を行なう若年層を中心とした人気者」という意味合いは色濃く残っているものの、1990年代に入ってからアイドルという語の使われ方が大きく変化している。これは昭和後期に入って多用されてきた「アーティスト」という語の登場が大きく影響していると考えられる。
ライムスターの宇多丸は『マブ論』のなかで「日本独特の芸能蔑視的風土」とアーティストの関係を指摘する。

「例えば、二人の歌手がいて、曲は似たようなもんだし歌の実力も同程度、ただし片方は振り付け完璧、バリバリ踊るんだけど、もう一人はそういうのナシ、基本的には突っ立ったまんま軽くリズムを取る程度、だったとします。理屈から言やぁ「歌って、しかも踊れる」方が良いってことになりそうなもんですけど、いや、そうじゃないんだと。日本の場合、後者の方が、歌に専念しているからってことなんでしょうか、「アーティストっぽい」ってことで、むしろ有り難そうな、高級なナニカのように受け取られるんだと。逆に前者は、観衆に媚びてるってことになってしまうのか、俗っぽいものとして見下されがちなんだと。」


歌手は基本的にアーティストとして扱われるのが常であり、その語が指し示す意味は「実力の伴った歌手」を指す。アーティスト歌手というジャンルの登場によって「力量を問われない歌手」はアイドルとして分類され、住み分けが行なわれていた。
だが1990年代に入ると歌手活動と踊りが急接近することで日本的アイドルの意味が揺らぎ始める。沖縄アクターズ・スクールの登場だ。
欧米あるいは韓国といったアジア圏においても、本来のアイドルとは歌って踊れることが絶対条件とされている。このような世界規格のアイドルとして、安室奈美恵やSPEEDといった沖縄アクターズ・スクール出身者は成功したのだが、これは日本のアイドル史にとって異質のものであり、従来の日本的アイドル像を揺るがした。
このような世界規格のアイドルが進出するという大きな時代の流れの中で、日本的アイドル像を復興するものとして現れたのがモーニング娘。だった。


モーニング娘。は1997年に「ASAYAN」(テレビ東京)で行われた「シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディション」の有力候補だった5人が集まって結成した。このときグランプリを獲得した平家みちよが実力を伴ったアーティスト候補だったとしたら、モーニング娘。はアーティスト候補、の候補であった。
世界規格のアイドルが進出するにつれて、力量を問わない、という日本的アイドルが存在しにくくなった時代にあって直接的に日本的アイドルをつくることは既に難しい。だがアーティストを目指すという建前を元にすることで「結果として」アイドルにしてしまうことは可能だ。
訓練され完成されたアイドルが世界規格なのだとしたら、日本的アイドルは明らかに力量は劣るだろう。しかし、テレビと連動し世界規格のアイドルになる為の成長物語とすることで「力量が足りないこと」を「発展性のある伸びシロ」に変換してみせたのである。
アーティストを志向しているのだがなりきれていない、というイメージは、観衆に媚びることなく逆に親近感や愛着といった日本的アイドルに必要な可愛がられる要素を醸成する土壌になる。また、成長物語として存在することで、「アイドルではなく成長物語を見ているんだ」という建前を与えることにも成功していた。
建前の存在はアイドル成功のキーである。歌ではなくアイドルそのものに商品価値を見出す層に対しても、旧来アイドルに嫌悪感を抱いていた層に対しても言い訳を用意することができる。言い訳というクッションによって相性の悪い支持層に摩擦を生じさせること無く人気を拡大できる。


しかし一つの曲の登場によってモーニング娘。像の一致が困難になってしまう。1999年の7枚目シングル『LOVEマシーン』である。
第3期メンバーの後藤真希を加えて発売されたこのシングルは従来の曲調から路線転換したものだったが165万枚という驚異的な売上を記録し、大ブレイクのきっかけとなった。曲そのものに加えて新メンバーのセンセーショナルな髪色も話題をさらった。
だがこの新メンバー加入、さらには路線転換によるヒットによって成長物語としての方向性は失われ、「女性ヴォーカルグループ」だったユニットは「アイドルグループ」として早くも完成形を見てしまう。これにより、アーティストを志向するが結果としてアイドルになっていたはずの彼女たちは、アイドルらしくある為のアイドルとして整形されていくことになる。
アイドルそのものを要求する層にとっては好ましいシフトであったが、楽曲すらもアイドル・ヲタ芸化していってしまった。やがて一般層への訴求力の源である楽曲の力は薄れ始め、グループを構成するメンバーのキャラのみが独り歩きしていく。元来付属的要素であるはずのキャラを前面に出されてもそれに興味のない人はついてこない。やはり楽曲というコンテンツを介さねば一般層には興味すらもたれない。
大きな変化が許されないアイドルグループのなかで物語を維持するというジレンマに対しては、新メンバー加入・卒業・シャッフルという代謝に頼ることで解決を図ったが定められた路線の幅は狭く、人が代わってもやるれることは限られる。逆に、立ち位置やキャラが不鮮明であったり明らかに力量が伴っていないとそれはグループの劣化と認識されてしまう。
一般層との楽曲を介した関係を絶ってしまうことで演者と観衆の箱庭化は免れず、ますます小さな母数で勝負しなければならなくなってしまった。この状態ではこの先、人気が落ちることはあっても回復あるいは拡大は見込めないだろう。


狭く深く売り込む手法が主流になりつつある業界で、はたしてアイドルに興味の無い層を取り込んでいく手法は可能だろうか?

宇多丸曰く、そのヒントはPerfumeにあるという。
「無駄に金のかかった宣伝でもなく、また、ファン限定な目先の小遣い稼ぎでもなく、ただ、ひたすら圧倒的な作品の力が、そして、そこから静かに、しかし着実に拡がっていったリスナーの支持こそが、この類稀なる「いい風」を生み出した源なのだということを、すべてのアイドル産業従事者は肝に命じるべきだと思います。」