おしゃれねぎ

スーパーに行ってねぎとろに入れる用の小口ねぎを探す。
見つけた。
   商品名 「おしゃれねぎ」
ついに、おしゃれの対象がねぎにまで及んでいる。
「おしゃれ」と対極に位置すると思われる「ねぎ」とのコラボレート。
ねぎがおしゃれであるべきか、なんて根本的問題を潔く無視したネーミング。
このコピーが世に出ているということは、「おしゃれ」であることが疑う余地なく善とされる志向性を表しているのではないか。
そもそも「おしゃれかどうか」はどのように判断するのか。


洒落、お洒落、オシャレ、表記によって表す意味が異なっているように感じる。
洒落を利かせる、という表現者の行為を表すものから、
お洒落をする、というその人自体を表すものへ。
オシャレ、は上記両者の境界を崩し、非オシャレへの啓蒙の意味を含んだものとして。
また、「オシャレさん」という場合は、つける必要のない敬称をつける慇懃無礼、自分はどうせオシャレじゃないですよ、と卑下することによって揶揄の意味が生じる。


洒落たモノ・人という場合、普通ではなくどこか傾いている、というカウンターカルチャーのにおいを含んでいるように思う。
直接的に表現するのではなく、あえて間接的に表現し、読み手や聞き手に考える余地を与える。
あえて回り道する美学、とでも言おうか。
押し付けや押しかけではなく、受け手の歩み寄りによってできる共有空間。
分かる人だけ分かればよい、と排他的な空間ともいえる。
分からない人は分かるようになるべき、という暗黙の了解。
ただいえることは、おしゃれは他者の認可が必要だ。
明確なおしゃれ観が定められないため「おしゃれかどうか」は言った者勝ち。
しかし、おしゃれは主張だけでは成立しない。
これがオシャレなんだよ、と言ったところで同意がなければ趣味の範疇に収まるだけだ。
「おしゃれ」って、自分で言った時点で、もうおしゃれではなくなる。
他者に認められることによってはじめて成立する概念。


現在はマスメディア主導でおしゃれ観がつくられる。
モテ服なんてのもそうかな。
メディアは既存の現象を記事にし、まとめたもののはずだと思われている。
メディア側は一度もそんなこと言ってないんだけど。
実態はそのコンセンサスを利用しつつ、現象を煽動するものだ。
産業の奨励にはプラスだが、中味がない。
だがメディアを信じる人たちによって、その架空はリアルな現象として立ち現れてくる。
無いはずの中味がいつのまにか在る。
そんな循環構造。
結構怖い。
まぁ要するに、おしゃれは人から言われるものであって、自分で言うもんじゃない、ってことだ。


ねぎ - Wikipedia

駄洒落 - Wikipedia

コラボレーション - Wikipedia