作品は誰のものか

作家が作品を作るとき、それは誰のためのものだろう。
作家の独り言ならば、それを作品とはいわない。
鑑賞者あっての作品。
それは確かだ。
だが、鑑賞者のための作品、それはもう作品ではない。
そのとき作家は、鑑賞者の欲望を体現する道具に成り下がる。


表現者は常に、他者に呑み込まれる恐怖と共にある。
自己が求める自己、他者から求められる自己、
両者は共存しなければならない。
そのため自己はせめぎあい、分裂する。
生存を望むなら、にせ自己を演じ続けなければならない。
このとき、生存はただ生存でしかなく、生の意味は消失する。
ほんとうの自己を望むなら、にせの自己を捨てなければならない。
生の意味は見出せるが、他者の不在は孤独だ。
さびしさを埋めるために、作品を反復するか。
ほんとうの自己を求めて、作品を放棄するか。


自分の作品であること、己が作家であること、
自己が自己であること、それを確認するため、作家は作品を破壊する。
自己の力の及ぶ範囲を確認するため、自己の範囲を測るため、
作家は作品を破壊する。
新たな創造のために、新たな作品のために、新たな苦悩とともに。



大人は判ってくれない』を読んで、そんなコトを思った。
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