『招かれざる客』

映画を見た。



登場人物を同じ重要度に等しく扱って一本の作品に落とし込む。
その点で三谷幸喜に似ているな、と思った。
ドラマ展開でワクワクしたのは久しぶりだ。


最近の映画、特に邦画は『泣ける』とか『感動』とか、根源的な感覚的感想に
行き着く(行き着かせるような)作品が多い。
これはコミュニケーションの排除と連帯という一見矛盾する欲望の表れではないかと思う。


『泣ける』人と『泣けない』人とは本質的に相容れない。
泣く、泣かないは個々人の感情回路の違いによるものなので、その意見の否定は人格の攻撃になりうる。
そして『泣ける』者同士、『泣けない』者同士は、互いに縄張りを張るのである。
前者は連帯として、後者はアンチの連帯として。
だが『泣ける』ことで繋がる者同士であっても、それが感覚的感想である以上『あれって泣けるよね〜』というレベルでしか作品を共有できないだろう。
否定されうる「意見」ではなく、否定をさせない「感覚的感想」。
『泣けねぇよ』という意見は排除しつつ、『泣けるよね〜』と確認する連帯。
この縄張り争いを不毛だと感じる者は、関わり合いを避けるしかない。


映画は目的から手段に変わった。
映画の連帯感創出装置化によって、解釈は生まれず、批評・評論は死んでいくだろう。
自分には昔ながらの作品にテーマをもたせる古典が合っていると思った。



特に関係は無いが


「シネマ青春白書」