哲学のために死ぬことはできるか

カンボジアに行った。
滞在は3日間と短かかったが一番学ぶことが多かったように思う。


一つは自分の観光に対する認識が変わったことだ。
観光が抱える問題は多い。
だが意外にも、現地の人曰く「外国人が来てよかった」そうだ。
確かにマスツーリズムは現地を荒らすことに通じてはいるが、過去の遺産を観光資源として現在の困窮を救えるのならば、観光は肯定されるだろう。
外貨獲得元である観光資源としての遺跡保存や生活インフラ整備のために資金・技術協力し、持続可能な観光を支援することが自立支援に繋がるのではないか。
また、経済の自由原理に反する一時的な支援ではあるが、フェアトレード商品の購買はその貢献に繋がるだろう。
過去の遺跡と現在生きている人のどちらが大切か。
どちらも大切だ。
発展途上国においては文化的価値よりも利用価値を重視して、
遺跡等の保存活動がなされない可能性もある。
だが誰が「遺跡・文化保存と経済自由原理のために飢えてくれ」と言うことができるだろうか。
観光が人と遺跡を共存させるのである。


マスツーリズム - Wikipedia
サステイナブルツーリズム - Wikipedia
公正取引 - Wikipedia



二つは口を噤むことの肯定的な意味である。
現地の人は負の歴史をあえて語らない。
他国間の戦争に巻き込まれ、内戦と虐殺があった。
だが彼らはあえてそれを語らない。
過去の問題を蒸し返して何ができるか。
何をする為に過去の問題を見直すのか。
負の歴史を振り返っても何にもならないことを彼らは身をもって知っている。
復興と発展を最優先事項にしている彼らに歴史を振り返る余裕はない。
辛い歴史を教え、記憶を引き継ぐべきか否か。
私が知っている戦争体験者たちは辛い体験を語ろうとしない。
これは推測の域を出ないが、その理由として、
過去の辛い体験を語ることが現在の世代に対して何を与えることができるのか、その問題で悩み迷っているようにみえる。
歴史の議論は一体何の為のものなのか、再考しなければならない。
カンボジアの人たちは口を噤むことによって発展と友好への道を開拓している。
極東の人たちは饒舌になることによって友好への道に自ら障壁をつくっている。
我々は、過去を振り返る余裕があることを喜ぶべきか、友好を自ら拒んでいることを悲しむべきなのか。
カンボジアはそんなことも教えてくれた。


カンボジア - Wikipedia