再確認装置としての「ニコニコ動画」

創設初期の段階では個人的にはあまり好きなシステムではなかったが、今になってその認識が変わりつつある。
youtubeの削除活動が顕著になってきたこと、テレビコンテンツ再視聴ポータルサイトとして、世代連帯確認装置として、これらの点で積極的に利用するようになった。


このシステムは掲示板のコミュニケーションの問題を封じ込めたもの、といっていいだろう。
動画に対するコメントは、テキストコミュニケーションと比較して大幅にリスクを回避できるからだ。


・ID表示による個人叩きの可能性が減る
叩かれるとしたらその行為の主体ではなく個々の結果のみである。


・動画コンテンツを中心とするので、コメントそのものはメインコンテンツとはなりえない
また、コメントが動画と同じく視覚的に流れることによって長文コメントはスルーされやすい。これによって議論らしい議論や言い争いが起こりにくいシステムになっている。


・個々のコメントは掲示板の時よりもコミュニケーションの志向がより対N方向へと強まる
「www」と書き込むとき、そのコメントの意味は「ワラタ」という個人的感想ではなく、「ココに注目」というフラグ的意味がおおきい。コメントする者は、視聴者でありながら他の視聴者を意識したうえでのコメントを求められ、一コンテンツ提供者としての役割姿勢が求められる。そのためコメントは書き込まれる前に自身の価値審査に晒される。これが本来の意味での「自重」である。


・時間軸及び視覚的な整合性
動画の内容とコメント内容は時間軸で一致することが求められ、また視聴者自身もそれを望むために特定の話題の過剰な反復がされにくい。


・コメント非表示
純粋に動画視聴を目的としている者とそうでない者の棲み分けが可能である。




youtubeにおいても日本のユーザーはテレビコンテンツを消費してきた。
個人が動画をアップできる環境がありながら、ネットでもテレビコンテンツを消費し続けるのはなぜだろうか。


・コスト
無料でコンテンツを楽しむことができる。地上波の時は無料なのにわざわざお金を出してレンタルすることは心理的に抵抗がある。


・時間
地上波放送の時間帯に視聴不可能な状態が多い。好きな時に好きなだけまとめて見ることができる。


・流通不足
一週見逃しただけ、という場合でも再視聴できる環境がない。視聴率を考えるならば、前一週放送分を局側がストックしておくべきだがその動きは鈍いと言わざるをえない。


・コンテンツの質
単純に日本のテレビはおもしろいということ。多少の劣化はあっても良質なコンテンツが驚くべき間隔で垂れ流されている。


・検索
テレビがこんなにおもしろいのに、個人が作ったコンテンツをわざわざ探して視聴する必要はあるのか?ということ。知らないものは探せない。




では最新作以外のコンテンツがアップされている状況とは何を意味するのか。


大きな物語」の内容は、政治や権力闘争からコンテンツへと移行しつつある。
コンテンツの共通体験の確認は、自らの世代を再帰的に規定し続けることを可能にする。
特定のコンテンツを消費したことが個人のステータスを形成するのである。
そのため、コンテンツが中心になった時代においての社会的位置付の確認は
「あなた(自分)は何者であるか?」
「私は○○をリアルタイムで観ていた。私は○○で育った人間である」
というやりとりになってくるのである。
この世界では、世代を跨いだコミュニケーションもコンテンツを中心としたものにならざるをえないだろう。
同世代による連帯というものは、いつの時代も甘美なものらしい。
それは「○○とか言ってる奴はゆとり」の言葉に集約される。
日本に限らないとは思うが、この国は世代による囲い込みと下の世代を揶揄したい欲望が強いのではなかろうか。
団塊世代大量退職による技術伝承不足の問題なんかも、本質論的に「下の世代が育たない」のではなく単に「上の世代が下の世代に仕事を任せてこなかった」だったりして。


自らを育てたコンテンツソフトが、ハードの進化によって再確認できるようになった。
コンテンツを懐かしむことによって、自分と同じような人間がいることを確認し、安心するのだ。
当時不確かだった、もしくは現在も不確かである同世代との連帯を、情報技術によって確認するのである。
それは同質な者だけが居住する閉鎖的な空間かもしれない。
だが技術の発達は、同質な者の選別と閉鎖的な空間への居住を可能にしてしまう。
そして人間は、可能であるならば使用してしまう弱い存在なのだ。



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