アニメにおける「リアリティ」 試論

「リアリティ」という言葉は映像作品においてもよく使われる言葉であるが、アニメにも使われるものである。すべてが作り物であるはずのアニメの「リアリティ」とは何を指しているのだろうか。まず、人物がそのまま出演するドラマや映画とアニメーションとの違いは何か、ということを「リアリティ」を問う思考ベクトルの違いから考える。
ドラマや映画は、カメラの向こうに現実に存在する役者の身体によって支えられているためリアリティを問う思考の出発点はあくまで「現実」である。思考ベクトルは「現実」を出発点として「虚構」へとむかうため、登場人物が完璧超人である、都合が良すぎる(悪すぎる)物語展開などは「リアリティがない」といわれる。しかしアニメーションに役者の身体は存在しない。そのため、ドラマや映画とは異なりアニメは「虚構」であり「現実」を映したものではないことが暗黙のうちに強調され、「虚構」であるという前提のもとに「リアリティ」が問われるのである。アニメは「虚構」から「現実」へと思考するために、登場人物が完璧超人「でない」、物語展開の都合が良「すぎない」といった要素はそれだけで「リアリティがある」と消極的に判別されているのである。
そもそもアニメは現実からの乖離を娯楽として、ロボット、SF、ファンタジーを描くことで発展してきた表現技法でもある。だからアニメを「リアルじゃないから」と批判する人はいない。「リアルでない」ことは自明だからだ。むしろ視聴者はアニメという「虚構」のなかから積極的に「現実」を発見し読み込み、例えば宮崎アニメを見て「自然は大切だ!」と思うのである。制作者からのメッセージの提示を受動的に待つのではなく、作品に込められた(込められていなくとも)メッセージを能動的に読み込み読み解こうとする。「リアリティ」の提示をただ待つのではなく、視聴者自らが作品に「リアリティ」を発見していく行為とその過程がアニメを視聴する際の特徴といえるだろう。
 アニメ作品は視聴者側が「リアリティ」を追及する、がその反面として制作者側が「リアリティ」を追求した作品はそう多くない。『機動戦士ガンダム』(79年)や『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)のように世界設定や人物の心理描写が細いものはあるが、それは結局「襲い来る敵の出現に対して防衛する」といったロボットアニメの王道である物語推進力に頼ったものでしかなく、ロボットを使って「何を見せるか」「どう見せるか」という点で優れた作品ではあるが、近未来やロボットという「設定」自体においては現実と地続きではなく「リアリティ」を失ってしまう。
 

そこで、制作者側が現実と地続きの「リアリティ」を積極的に追求した作品として『機動警察パトレイバー2 the movie』を紹介する。
(『機動警察パトレイバー』は88年から漫画とアニメシリーズとして展開されたもので、89年に『機動警察パトレイバー the movie』が公開される。『1』は押井監督の独自性とレイバー(作業用ロボット)が格闘するなどの娯楽性がうまく融合し、原作ファンからも評価された。この作品の興行的成功を受け『2』の製作が決定した。)



あらすじ
1999年東南アジア某国、PKO部隊として日本から派遣された陸自レイバー小隊がゲリラと接触、攻撃を受けながら後退していた。部隊を指揮していた柘植は発砲許可を求めるが許可は降りず小隊は全滅してしまう。(映像資料1、chapter1)
3年後、横浜ベイブリッジに一発のミサイルが放たれる。巧妙な歪曲工作によって自衛隊の関与が疑われ、更にハッキングによる自衛隊三沢基地所属機による幻の東京爆撃が演じられる。これに過剰反応した警察の露骨な自衛隊への対抗行動により、自衛隊は基地に篭城をはじめる。在日米軍の圧力もあって事態の早急な収拾を図ろうとした政府は、警察に事態悪化の責任を押し付け自衛隊に東京への治安出動命令を下す。(映像資料2、chapter16,17)
埋立地から飛び立った戦闘ヘリが都内の通信設備と橋を破壊、さらに飛行船が妨害電波を流し都内に展開した自衛隊は情報が共有できず孤立する。警察上層部も責任の擦り付け合いで機能せず、特車二課はこれを見限り独自に出撃する。



考察
この『2』は娯楽性を排して押井監督の色を前面に出した作品になっている。あらすじを見ても分かるとおりほぼロボットが登場しない。ロボットの登場は「リアリティ」の天敵であるが、映像資料1のようにPKO(現実)とレイバー(虚構)を組み合わされて、しかも交戦許可が下りないという現実でもありそうな状況設定とともに提示されることで視聴者の「リアリティ」を捉える思考のベクトルは混乱し、現実世界と仮想世界の間を漂いながら物語のなかに入ることになる。さらに物語内でモデルになっているPKO、警察、自衛隊といった組織は現実に存在するもので、登場人物たちはそこに所属する特権的立場にない一個人として描かれている。ヒーローが存在しない、というこれまでのアニメの定石を意図的に外すことによってより「リアリティ」を増すことに成功している。
映像資料2は自衛隊が街中に出動しても日常と何ら変わらず行動してしまう人々の様を描写している。このシーンのなかの人物たちには「現実感」や「危機感」がまるでない。しかしこれを見せ付けられた我々はこう想像する「もし我々が同じ状況になっても同じ行動をしてしまうのではないか」と。作品の中に自らの分身を見出し客観視することで発生する異化効果によって、ただの思考実験であったはずの「虚構」=アニメが「現実」に存在しているはずの我々の「現実感のなさ」「危機感のなさ」を糾弾しているのである。
また、この作品には情報戦争、警察と自衛隊の対立、上層部と現場のギャップ、都市論、正義の戦争と不正義の平和の糾弾といったメッセージ性が強く、後のドラマやアニメに作品群にも大きく影響を与えた作品である。「リアリティ」に真正面から取り組んだ『機動警察パトレイバー2 the movie』はアニメ好きでなくとも楽しめる作品だと思うので、見ていない人はぜひ全編通して見るが吉。