ケータイ小説の描くもの

問題: (援助交際+レイプ+妊娠+薬物+不治の病+自殺+真実の愛)       − (心理・情景の描写+固有名詞)



















答え: ケータイ小説



速水健朗の『ケータイ小説的。』によればケータイ小説の成分はこれらによって構成されているという。
小説の作法(書き手・読み手ともに)に則っていない・内容が稚拙だとして文学批評界において無視し続けられている存在でありながら、図書売上では上位を占め図書館では常に貸し出し中という未だその評価を定めるに至らないジャンルである。
大別すればオタクに属するライトノベルには、オタク系研究者を筆頭に再評価を促す運動が見られるが、ケータイ小説にはそのような旗振り役がいない。
その大きな要因として、ケータイ小説はいわゆるオタク文化とは対照の位置にあるヤンキー文化に属していること、そしてヤンキー文化の研究者が非常に少ないことが挙げられる。


ケータイ小説がヤンキー文化に属するとはどういうことか。
速水はまずすでに廃刊したレディース向け雑誌『ティーンズロード』の投稿欄とケータイ小説の内容の類似を指摘する。
投稿欄にはレディースにおける武勇伝などではなく、主に恋愛話、とくに不幸な実体験(とされる)話で占められていた。
そこには、あくまで男性に準ずるというレディースの規範に則った恋愛観である男性優位の関係性がうかがえる。
その意味で、男性からの視線ではなくあくまで同姓間の関係性を重視し独自のトライブ(アムラーヤマンバギャルなど)を生み出したギャル文化とは大きく区別する必要があるだろう。


消えたレディースたち、ヤンキー文化はどこへいったか。
速水はケータイ小説の特徴である、情景・心理描写・固有名詞の欠落を、浜崎あゆみの歌詞と重ね合わせる。
浜崎の歌詞には情景・心理描写、加えて未来志向はほぼ無いに等しく、固有名詞も抜け落ち、男性への依存に近い言葉を選んでいる。
そこには、過去のトラウマ(としている)ものをどう処理して、現在の自己とどう対峙するのか、という姿勢がある。
浜崎自身ももともとヤンキー文化出で薄幸の人であり、役者時代でもヤンキーで薄幸な少女役で出演していた。
そんな浜崎がヤンキー文化の新教祖となるのに時間はかからなかった。
浜崎の「美白」「金髪」「豹柄」というキーワードを挙げるだけでも、ヤンキー文化と親和性が高いことがうかがい知れる。


ヤンキーからメンヘルへ。
浜崎は徐々に静まっていったが、ヤンキー文化の受け皿としての機能を失っていったわけではない。
かつて浜崎の歌詞に共感していた者たちは、メンヘル系・メンヘラーと呼び名を変えて存在し続けている。
メンヘル系は精神不安定・自傷行為、恋愛においては共依存とともに語られることが多い。
時に共依存は、DVをも「この人は私がいないとダメなんだ」「私を愛してくれるからなんだ」として自分の心身の安全よりも優先されるという。
事実を元に書かれている(とされる)ケータイ小説において、情景・心理描写がない代わりに詳細に書かれているのがデートDVだ。
推測ではあるがこの点だけが詳細に描かれているということは、著者自身の経験であり、かつ共感を持って読まれる要因ではないだろうか。



関係性を変えるケータイ。
デートDVを生み出す一要因である「束縛」を可能にするツールがケータイである。
ケータイによって相手の行動履歴を確認・監視し、さらにはコントロールできるからだ。
ケータイの出現によって常時連絡が可能になった、と同時にそれは常時束縛されることも意味する。
ケータイは携帯しているはずだ、という確信から、コミュニケーションは100%確実に届くものに変貌した。
これによって恋人関係・友人関係は、連絡が取れる範囲と密度という単位に変換されていくだろう。
恋人関係においてその単位を愛情に再変換した場合、束縛=愛情となる図式も成り立ちうる。
近年増加しているデートDVもケータイの出現による束縛が発生を促している可能性は十分に考えられるだろう。
また、そのような束縛が物語中の「障壁」として描かれることが多く、その物語を読者が「障壁」の元であるケータイメディアで読むというのは示唆的だ。
暴力・死などがあっさりと描かれるのに対して、唯一描かれている「障壁」がコミュニケーションそのものであるということ。
常時接続が可能であるがゆえに関係性の確認が困難になる、それゆえ「一つになる」ことが重要視されるのだ。
ニューメディアによって関係性がかき乱された時代の物語であるケータイ小説の最後にはなぜかオールドメディアが登場する。
手紙、日記、黒板、、コミュニケーションすべてが均質化されてしまう中で、伝達が不確実であるからこそ独自の関係性を築くことができるこれらのオールドメディアに回帰することは、関係性の回帰を示唆しているのではないだろうか。


ケータイ小説のリアリティ。
社会現象としての冒頭の問題に挙げた新・七つの大罪が実生活レベルでのリアルに通じているかは正直言って疑問だ。
しかし、ケータイ小説の売上ら読み取れるのは読者たちのリアル志向である。
事実を基にした(と謳っている)話でなければ売れないのである。
実生活レベルと離れているのになぜリアリティを感じるのか、それは他者による語りが関係する。
つまり、新・七つの大罪が語られるのは、他者によって少女が語られる際のものであることだ。
「女子高生とはこういうものだ」というステレオタイプ、また欲望の対象という視線に対して、抵抗するというよりもむしろそれを利用し武器にしているのではないか。
「女子高生はこう見られている」、「私の年代はこう見られている」、「私たちはこう見られている」、、
他者の語るキーワードを用いて漂流する自身のアイデンティティと所属するトライブを固定化する、たとえそれらが実生活と離れていたとしても、「そう語られる自分」という固定化は可能だ。
ケータイ小説に感じられるリアリティは、その外側に居ては感じられない。
見らている視線を感じ理解しなければならない、内側に居て初めて感じられるリアリティなのだ。
そこが批評を鈍らせる要因であることも確かだろう。