お笑い天下一武道会

「ナイツ」
・ボクシング出身の総合スタイル
・高い技術力でボディの急所を的確に繰り返し当てる
・パンチ力はないが手数で確実に判定勝ちを収める老獪さを持つ


予選でスタミナを奪われてしまったために、決勝ではフットワークが重い。
ワン・ツーを基調とした単調で散発的な攻撃のためにKOを決めきることができない。
もっと上下に打ち分けたり、要所で的確にパンチを集めることができればジャッジの印象はよかっただろう。



NON STYLE
・正統派空手
・オールレンジ対応可能で、技の種類・威力ともにハイレベル
・型・実戦ともに実力派、地方大会では既に優勝経験アリ


強靭なスタミナで下半身が安定しているために軸がぶれない。
フェイントを交えて相手に隙をつくり、そこに的確にそして多彩に攻撃を集める。
常に自分の距離で勝負し続け主導権を握っていた。
自分の距離に引き込む技術力と、我流を通す精神力は比類なき才能といえるだろう。



「オードリー」
・総合出身のトリッキースタイル
・意外性と積極的攻性が売りで人気も高い
・経験不足だがそのぶん怖いものなし


序盤からバックハンドブローや胴回し回転蹴りで会場を沸かせる。
ただ、相手との距離感やダメージ量を測らず攻撃を振り回すのは経験不足ゆえか。
当たればフラッシュダウンは奪えるが、芯に残るダメージは与えられない。
カウンター気味に出した「鬼瓦」は、逆に自身のダウンとして判定されてしまった。



今年度の結果は、M-1の初心を思い起こさせるものであった。
総合お笑い格闘技の世界では、どんな型であれ、とにかく相手を笑い倒しさえすればよい。
その意味では、トリッキーなスタイルで大技を連発し、会場を沸かせるオードリーは非常に見栄えのする選手だ。
ただ、本大会はなんでもアリの総合お笑い大会ではない。
本大会は「漫才道」を志す者の頂点を決定するものなのである。


「誰が一番おもしろいか」ではなく「誰が一番道を究めたか」
「正統なものを正当に評価する」そういう大会なのだ。


キャラ性による優劣、ただ多いネタ数、間を考えない捲くし立て、一発ギャグ、といった「技」が伴わないものは評価の対象から除外される。
そして、楽しんでやれているか、さらには迷いといった「心」が伴わない者は減点対象にもなりうる世界である。
原点回帰の再確認という意味でも NON STYLE の優勝は至極真っ当で意義ある結果といえるだろう。
その分、ジャッジの評価と視聴者の評価が分かれていることに若干の危惧を抱かざるをえない。


視聴者はトリッキーなスタイルに見慣らされているのではないか?
視聴者は正統なものを正当に評価することができるのか?
知っている選手、好きな選手を過大評価しているのではないか?


客は客観的な評価を下す必要はないのかもしれない。
客はただ好きな選手を応援し、「おもしろ」ければ何でもいいのかもしれない。
ただ、この現象は、大会第一回目の「大阪会場の悪夢」が全国規模に拡大しているかのようにみえて仕方ないのだ。

再評価 オリエンタルラジオ

「武勇伝♪武勇伝♪武勇デンデンデデンデン♪」でおなじみオリエンタルラジオ
…というか武勇伝ネタしか観たことがない人が大半ではないだろうか。
エンタの神様』から大ブレイクを遂げる。しかし後に実力不足として批判され冠番組は激減してしまう。
テレビで見る機会の少なくなったオリエンタルラジオ、彼らは今どうしているのか。


昨今『エンタの神様』の価値が暴落しているのに伴って叩き行為が蔓延している。笑いのレベルを低くした、ワンパターン、云々。たしかに現在では完全にインパクト・キャラクター重視の事前選考がなされ、その力がないと判断された芸人は出演することすら困難な状況である。また、ディレクターなど局の人間が芸の内容やキャラ付けに口を出すことも少なくないという。これは健全とはいえない状況だろう。
だが放映当初は新鮮に映ったのだ。当時はお笑い新世代発掘時代であり『お笑い登竜門』『ゲンセキ』『エンタの神様』など、ベテラン・若手・キャラといったいずれも「実力派」を発掘することをコンテンツにした番組が流行していた。だが当然ながら時代は移るものであり終わりがある。価値ある文化財を掘り尽くした時点で発掘作業は終了する、はずだった。だが唯一「キャラもの」はリサイクルが可能なのである。同じ芸人でも複数のキャラを持つことができるからだ。一つのキャラが飽きられたらまたキャラを作ればいい、という発想に基づくのが現在のエンタである。番組は存続するが芸人は使い捨て、この姿勢は叩かれても仕方ない。
また、芸人の出世コースが問題だ。現在、芸人のトークバラエティ番組への進出が著しい。だがそこで使われているのは単価の安い「キャラ芸人」出身者であり漫才・漫談でのし上がってきた芸人ではないことに注意しなければならない。キャラが受けていたのであり、漫談が面白かったから評価されたのではない。そもそも漫談が面白いのならとうにその分野で評価されているはずだ。キャラもトークもいける芸人は実はレアなのである。


これらの齟齬のあおりをもろにくらったのがオリエンタルラジオだ。武勇伝という「キャラネタ」によって人気を得た彼らをどう評価したらよいのか、事務所とテレビ局は悩んだ。結果、彼らの評価には「出世」というものさしが使われた。だが残念なことに、当時のものさしには「番組をいくつ持つか」という目盛りしかなかったのである。(このものさしは現在もあまり変わっていないが…。)
トーク番組の司会で武勇伝をやるのか、そんなことはできるわけがない。一時間ぶっつづけで漫才をするのか、そんなことは大御所だって無理だ。無論、若手であった彼らの芸の技量が足りなかったことは否めない、だが始めから番組とキャストの組み合わせに無理があったことは考慮されるべきだろう。
彼らは「実力不足」の烙印を押されたが、それは決して芸人としての資質の評価ではないことは今までとうとうと述べてきたとおりである。最近ではオリエンタルラジオの同期である「フルーツポンチ」「はんにゃ」が注目されているらしいが実力差は歴然だ。同期の彼らにはまだ単独でDVD一本分の作品を作り上げられる実力はない。


オリエンタルラジオはDVD作品として既に、2008年3月にオムニバスコント集『十』、2008年8月にツアーを収録した80分漫才の『才』をリリースしている。


十 [DVD]
処女作というものは往々にして制作者のやりたいことやパーソナリティを全て詰め込もうとする。それは歴代最高の評価を得たりする一方で、まるで自己満足で終わってしまったりする。この『十』はどちらでもない、ただただ不完全燃焼だ。
パッケージのコントはまず芸人がいる、そしてカメラマンが居て音響が居てディレクターが居て…。すなわち自由ではない、コントロールできない部分がありすぎる。『十』で最も面白い(と思う)メタ?コント「TAMPAK」のインタビュー部分において、会議の段階で「わかりにくい」との理由でスタッフからコント内容について反対された旨を話していることは象徴的だ。オリエンタルラジオ中田敦彦がやりたいこととスタッフがやらせたいことの噛み合わなさ。ネタと演出の噛み合わなさ。お金のかけ方と面白さの噛み合わなさ。すべてがギクシャクしてしまっている。「TAMPAK」の面白さをインタビュー形式で説明することを余儀なくされた悔しさは察するに余りある。芸人にそのネタについて本人に説明させるというのは辱める行為であるし、視聴者のリテラシーを低く見積もっていることの裏返しだ。テレビではなく、わざわざDVDを買ったり借りたりして「さぁ楽しませてもらおうか」と構えている視聴者のお笑いリテラシーが低いことがあるだろうか。メタコントとしてみることもできるが、演技・衣装・話法を作りこんでおらず素にしか見えない。正直どこまで本気なのか測りかねるが、そこも含めて面白い。


オリエンタルラジオ 全国漫才ライブツアー 才(ザイ) [DVD]
『才』では一転してお金を使わないことにこだわったそうだ。セットも使わず、あるのはスタンドマイク一本と中田が描いた背景だけだ。そこで延々と漫才をやり続ける。シンプル イズ ベスト。
彼らの漫才はとても現代的で洗練されている。教科書的と言い換えてもいいだろう。漫才内ミニコントの配分、相方いじりの配分、ブラックなネタの配分、そして全体の構成。全てのバランスがよい。前述要素のうち一点勝負の漫才師が多い中で全てを一定のレベルでこなせるのは強みでもあり弱みでもある。キャラネタを意図的に封印し「僕たちはあのネタだけじゃないんだ」「こんなこともできる、あんなことも…」と器用貧乏的に欲張ってしまうことによって独自の世界を築くまでには至っていない。意識しないようにすることが逆に意識を強めてしまう、よくあることだ。そんな張り詰めた気合の入り方が作品の勢いを後押ししており、いつか壊れてしまうんじゃないか?と思わせるほどの危うさも魅力の一つとして昇華されている。なんとなくだけどもレンタル期間中三回も観てしまうのはこういう要素によるものだと思う。面白くないという先入観のある人ほど一見の価値あり。オススメです。


オリエンタルラジオって女ウケ芸人だと思っていたけれども違うような気がする。それは特に中田敦彦のパーソナリティによるものだろう。彼の狂気、獣性、暗さというのは女性は引くがむしろ男ウケはよい。一部のカルト的支持層はおそらく男性だ、あくまで推測だけど。


http://oriental-nakata.laff.jp/
中田 敦彦 - 変人スレ@wiki - アットウィキ
芸人にまつわるちょっといい話@お笑い芸人板 - オリエンタルラジオ


ニコニコ環境最適化計画

flash player 10 とニコニコ動画の相性が悪い。
ちょっと放置するとフリーズしてしまう。
Proxomitronを入れてるからだろうか。
解決メモ。


まず flash playerのバージョンを戻す。
参考
Flash Playerをアンインストールして旧バージョンに戻す方法 - GIGAZINE



次に Proxomitronの更新。
ニコニコ動画(秋)になっていらない機能が増えた。勝手に割り込みますけどお金払ったら割り込ませない機能が使えます!…とか。やってはいけない一線を越えたような気がする。マッチポンプもいいかげんにしろ。
使っている人がどのくらい居るか分からないがProxomitronはかなり便利。ニコ割時報、広告の非表示、NGID、NGコメント、NGコマンド機能がほぼ制限なしに使えるようになります。
まず「flvplayer_wrapper custom 単体版」を導入します。ニコニコに関する基本的なフィルタは設定済みなので細かい操作は不要。最新の081023版は(秋)にほぼ完全対応済み。
Proxomitron導入ガイド/設定済/flvplayer_wrapper - MovieList Plus!


もし他サイトの表示速度が遅くなる場合は下記参照。
Proxomitron導入ガイド/4.さらに便利に - MovieList Plus!



次にニコニコ専用のフィルタを導入。
なかでも特に重宝するのが「wwww」制限だ。これは5つ以上の「ワロタwwwww」「ウケルwwwwwwwwww」といった邪魔なだけの草コメントを強制的にwwwwまで刈ってくれる。
http://abc.s65.xrea.com/prox/wiki/%A5%D5%A5%A3%A5%EB%A5%BF%A1%A2%A5%EA%A5%B9%A5%C8%B8%F8%B3%AB/nicovideo/
操作手順
1、タスクバー、もしくはインストール先に入っている「Proxomitron」を開く。
2、フィルタの編集 ⇒Webページ
3、フィルタをクリップボードからインポート ⇒導入したいフィルタの[Patterns]以下を貼り付け
4、OK ⇒設定を保存 ⇒リロード



慣れてきたらNGワード、NGタイトルのリストを作成する。
操作手順
1、Proxomitron インストール先のListsフォルダから ProxomitronStrEnc を起動。
2、消したい単語を入力し、Enterで変換 ⇒自動的にNGwordリストに登録してくれる。
(NGタイトルの場合は、リストの参照先をNGtitleに変更すればよい。)



導入が終わりキャッシュをクリアしたら早速効果を試してみましょう。


草刈りフィルタ確認用

KOC

まるまる見逃しました。キングオブコント
でもバッファロー吾郎バナナマンの準決勝・決勝ネタが動画で上がっていたのでそこだけでも批評を。
どちらが面白かったか。
笑える、笑えない、のレベルではあまりに低次元なので技術・構成から探ってみたい。


まず漫才とコントの違いは何か。
漫才は+である。
漫才においては、大筋のストーリーに対してボケ側が余計なものを足していく作業が行われる。
その足されたものをツッコミが回収していくというスタイルが王道だ。
しかしコントではそうはいかない。
コントは−だ。
コントは欠落した状態で始まる。
ツッコミという回収作業と「見せる態度」の欠落である。


コントとは異世界を創ることである。
漫才は現実世界から出発する、コントはコント世界から出発する。
現実世界とコント世界の落差をどれくらい創ることができるか、それがコントだ。
コント=ほんの少しズレた世界、これを維持するためにはズレを現実的価値観で回収してはならない。
ズレを回収する作業が行われるたび、観衆は現実世界の価値観へと引き戻されてしまう。
ほんの少しズレた世界を疑問に思うことはあっても訂正はしない、これが鉄則となる。
回収するならコント世界内の価値観で回収すること。
コント世界内で全てをやりきることが重要なのだ。
決して現実世界とコント世界を往復してはならない。
コントは「見られている世界」であって「見せる世界」ではない。
ましてや観衆に向かって喋るなど言語道断だ。


これらの点でバッファロー吾郎は非常に漫才的なコントを展開したと言える。
異世界を創ることを放棄したのだ。
市毛良枝」「高倉健」など現実世界の語彙を引用し、しかもこれは「お笑い」という現実的ジャンルと「俳優」というこれもまた現実的ジャンルである。
結合確率の低さという組み合わせの落差だけであって内容の落差が無いに等しい。
一笑い一笑いを成立させても、その一笑い間に連続関係性がないために一つの大きな笑いには繋がっていないのだ。
コントの五分間とショートコント詰め合わせ五分間が異なるのは明白である。
超現実的語彙を引用し、現実世界の笑いでもって観衆に向かって訴えかける。
これは一つの技術であり、他が真似できない芸風である。
これは当然リスペクトされるべきだし、わかる人にはわかるからこそ熱狂的支持者が居る。
だがしかし、舞台はキングオブコントなのだ。
「とにかく面白いコント芸」がキングになれる。
コントとは技術でも構成でも芸暦でもない、ネタなのだ。
余分な要素をそぎ落とした「ネタ」で評価されなければならない。


決勝ネタについてはバナナマンも同罪だ。
宮沢りえ」という現実世界の語句を利用した結果、コント世界の住人と芸能界における「バナナマン」が混同してしまい非常に中途半端な世界を構築してしまった。
しかも「宮沢りえ」を何かのネタと結び付けることなく、本人として扱ってしまうことで客も笑っていいのかいけないのか判断を棚上げさせたままの状態で五分間を悶々と過ごさせてしまう。
これは最後のオチのカタルシスのための必要条件ではあったが、代償として五分間中の小ネタへの反応を鈍くさせた。
小ネタも連続関係性を欠いたものであり、コント世界の住人としてではない「バナナマン日村」のテンションの高さだけが笑いに繋がっていた。
これはコントで笑わせたのではなく、キャラが笑われただけである。
基本的にはバッファロー吾郎と同じくしてショートコント詰め合わせの五分間であったが、言い回しのセンスはバナナマンが勝っていると言わざるをえない。
「一回ぐらい当たる」「こんなに意識したのは初めて」これらは意味内容の突飛さに頼らず、場面と言い回しの組み合わせで落差を作り出すことに成功している。
地味な要素かもしれないが、逆説的に、確かな演技力・抑揚のある構成力無くしてこれは成り立たない。
これらの要素を排除し「ネタ」だけを抜き出して勝負したとしても決して負けていないだろう。
決勝において「朝礼」ネタをやっていたら優勝していた、と思いたい。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081005-00000001-oric-ent

怖い話フェアー

絶賛好評開催中!(参加者は自分だけ!)


39 すべらない怪談話 Vol.1
56 第2回都市伝説サミット 社会タブー編 Vol.1


溜池Now - Wikipedia




アーカイブからVol.2が削除されている恐怖!
でも「youku」サイト内で検索するとあります。さすが中国クォリティ!
いろんな意味で消されたら不味いんで直リンはしません。
youku.com




霊や都市伝説も怖いけどもっと怖いのは陰謀論系。
「たかが陰謀論」で片付けられないほど限りなく事実に近いという恐怖!
いやこれは教養として見ておくべきだよ、マジで。


Loose Change

ルース・チェンジ - Wikipedia



Zeitgeist part2
http://video.google.com/videoplay?docid=-7760134233260750226
「ツァイトガイスト」ファイナル・エディション – 日本語字幕付き - David Icke in Japan




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%82%BA



アメリカ同時多発テロ事件陰謀説 - Wikipedia

ええじゃないか

九月中旬に入り各地で祭りが盛んに行われている。たまに祭りを見に行ったりはするのだが、楽しさよりも寂しさのほうが大きい気がする。イベントには参加できるが、祭りには参加できないからだ。


「祭り」とはその土地に住む者たちのものである。狭く区切られた地域を単位とし、その土地の文化・信仰・伝承が色濃い。また、自分たちの祭り=自身が担い手であるという土着感覚を非常に重視するものであり、言い換えれば閉鎖的とも表現できるだろう。担い手を地元民に限定することによって、誰のための祭りか、何のための祭りかを明確にしていくことで継承していくのだ。この土着感覚のおかげでヨソとウチという認識が生まれ、地域による多彩さの維持にも繋がっている。
一方「イベント」はそれが好きな者たちのものである。趣味・嗜好を単位とし、主義・主張・思想という背景が問われることは無い。祭りの担い手のような、そこに生まれたから、という自分では操作し得ない、ある種運命付けられた背景は絶対的な意味強度を誇り疑いようが無い。だが趣味・嗜好となると、なぜか分からないけど好き、といったように言葉にすればするほど意味強度が脆くなる性質がある。これを共有しているためにイベントでは背景が問われることなく、そこに居ること、が重要になってくる。わざわざそこに居ることがその趣味を証明する唯一の方法であると同時に、そこに居ることの前提でもあるのだ。


祭りに参加する、と一口に言ってもどこまでを「参加」といえるのか。
色々な定義があるだろうが個人的には非常に狭い範囲を指し示しているように思われるのだ。「○○祭りを見に行ってきました!」、、「○○祭りの神輿を担いできました!」、、これらは祭りに参加したのではなく、イベントに行ってきただけだ。どんなにその祭りが好きでも愛していても、結局は部外者だしそう扱われる。どんなに小規模であろうと、どんなに嫌であろうと、地元の祭の担い手になることには敵うものはない。


現代では地元への帰属意識自体が希薄になりつつある。祭りでは有利に働く地域の閉鎖性がここでは不利に働くのだ。その地域に生まれたという絶対的背景によって従うべき規範をも定められたことに反発する者たち、彼らはその地域を脱出するだろう。だが脱出したとしても絶対的背景を手に入れられるわけではない。地元に居ようと都心に居ようと「なぜその土地に住むのか?」、「なぜここにいるのか?」、彼らは絶えず問われ漂泊し続けるのである。
永遠に漂泊する彼らにとっての祭りは存在しえるのだろうか。


それを生み出す方法の一つが「イベントの祭り化」である。
祭りでは限定された区域(範囲)で出生した者(人)を対象とすることで絶対的背景を獲得していた。そうではなく、イベントの祭り化は趣味・嗜好(人)を広域に拡大(範囲)させる。人と範囲の構造を逆転させることで閉鎖性を失うことなく祭りの持つ絶対的背景を擬似的に構築することができるわけだ。
日本初のレイヴ(?)である「ええじゃないか」を例にすると分かりやすいだろう。
ええじゃないか - Wikipedia
この社会現象を担っていたのは主に奉公に出ている庶民たちだ。土着性を剥奪された彼らは同じ境遇の者同士で「ええじゃないか」と、お互いの個人を問うことなくお札と参詣だけで繋がっていた。逆に言えば「ええじゃないか」レベルまで引き上げ、絶対的背景という命題を隠蔽させることで抑圧を解放しヤケクソ的快楽に昇華させたのだ。


この非土着的祭りは現代でも存在している。
仏教を基盤とした音頭や踊りは衰退したが代わりに、それは西洋文化であるヒッピー、レイヴ、またラスタファリアニズムを基にしたレゲエという適度な閉鎖性を持った文化に継承された。祭り的性格の形成には適度な閉鎖性が必要だが、規模の小ささやメディアへの露出度、アンダーグラウンド性そのものに価値を見出すこともあり、これらの文化に触れていない一般の人々にとって彼らは異端であり、時に排除の対象となる。
http://mainichi.jp/area/gunma/news/20080911ddlk10040040000c.html
このニュースに対するコメントやブログを見てもまるで親が子どもを諭すときの「ダメだからダメなんだ」というような頭ごなしのものが大半だった。これらがまさに社会の縮図なのである。
漂泊する者たちはこれらの発言をする者たちのような伝統的・妄信的規範から抑圧されているのであり、イベントの祭り化によって脱却を試みているのである。抑圧者たちはそこで何か問題が起これば「それみたことか」と規範の再強化に乗り出すわけだが、そこに明確な論理が無いことに気付く者は少ない。抑圧者たちもまた、既存の規範を信じきることができないからこそ他を排除しているだけなのだ。そうしなければ自身が漂泊してしまう。


誰しもが祭りに参加する権利があると考える。彼らにとっての祭りの場そのものまで奪ってしまうのか。
イベントの継続維持には観客動員が必須だ。だが皆が皆、その文化思想に共鳴しているわけではない。観客を動員すればするほど「にわか」が増えていくのである。文化的にわかだけでなく分別さえできないマナーにわかも増えていくる。彼らは自分たちが祭り・イベントを作るという意識が希薄であり、ただのお客さんなのだ。彼らを抑圧者たちと同じように排除してしまうのか、客と割り切りボッタクるのか、教育していくのか。彼らもまた、一枚岩ではない。


奇しくも相撲界も同じ問題を抱えている。もし裁判になるのならば大麻取締法そのものの妥当性が問題になるのは間違いない。若ノ鵬たちには申し訳ないが今しばらく注目の的になっていただこう。






アイドルの境界線

モー娘。消滅の危機!? 『ハロモニ@』が打ち切り!|日刊サイゾー


国民的アイドルだったはずのモーニング娘。はどこから転換期を迎えたのか。
いや、そもそも彼女たちは「アイドル」だったか?


アイドル - Wikipedia


アイドルの系譜を見ていくと「歌手活動を行なう若年層を中心とした人気者」という意味合いは色濃く残っているものの、1990年代に入ってからアイドルという語の使われ方が大きく変化している。これは昭和後期に入って多用されてきた「アーティスト」という語の登場が大きく影響していると考えられる。
ライムスターの宇多丸は『マブ論』のなかで「日本独特の芸能蔑視的風土」とアーティストの関係を指摘する。

「例えば、二人の歌手がいて、曲は似たようなもんだし歌の実力も同程度、ただし片方は振り付け完璧、バリバリ踊るんだけど、もう一人はそういうのナシ、基本的には突っ立ったまんま軽くリズムを取る程度、だったとします。理屈から言やぁ「歌って、しかも踊れる」方が良いってことになりそうなもんですけど、いや、そうじゃないんだと。日本の場合、後者の方が、歌に専念しているからってことなんでしょうか、「アーティストっぽい」ってことで、むしろ有り難そうな、高級なナニカのように受け取られるんだと。逆に前者は、観衆に媚びてるってことになってしまうのか、俗っぽいものとして見下されがちなんだと。」


歌手は基本的にアーティストとして扱われるのが常であり、その語が指し示す意味は「実力の伴った歌手」を指す。アーティスト歌手というジャンルの登場によって「力量を問われない歌手」はアイドルとして分類され、住み分けが行なわれていた。
だが1990年代に入ると歌手活動と踊りが急接近することで日本的アイドルの意味が揺らぎ始める。沖縄アクターズ・スクールの登場だ。
欧米あるいは韓国といったアジア圏においても、本来のアイドルとは歌って踊れることが絶対条件とされている。このような世界規格のアイドルとして、安室奈美恵やSPEEDといった沖縄アクターズ・スクール出身者は成功したのだが、これは日本のアイドル史にとって異質のものであり、従来の日本的アイドル像を揺るがした。
このような世界規格のアイドルが進出するという大きな時代の流れの中で、日本的アイドル像を復興するものとして現れたのがモーニング娘。だった。


モーニング娘。は1997年に「ASAYAN」(テレビ東京)で行われた「シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディション」の有力候補だった5人が集まって結成した。このときグランプリを獲得した平家みちよが実力を伴ったアーティスト候補だったとしたら、モーニング娘。はアーティスト候補、の候補であった。
世界規格のアイドルが進出するにつれて、力量を問わない、という日本的アイドルが存在しにくくなった時代にあって直接的に日本的アイドルをつくることは既に難しい。だがアーティストを目指すという建前を元にすることで「結果として」アイドルにしてしまうことは可能だ。
訓練され完成されたアイドルが世界規格なのだとしたら、日本的アイドルは明らかに力量は劣るだろう。しかし、テレビと連動し世界規格のアイドルになる為の成長物語とすることで「力量が足りないこと」を「発展性のある伸びシロ」に変換してみせたのである。
アーティストを志向しているのだがなりきれていない、というイメージは、観衆に媚びることなく逆に親近感や愛着といった日本的アイドルに必要な可愛がられる要素を醸成する土壌になる。また、成長物語として存在することで、「アイドルではなく成長物語を見ているんだ」という建前を与えることにも成功していた。
建前の存在はアイドル成功のキーである。歌ではなくアイドルそのものに商品価値を見出す層に対しても、旧来アイドルに嫌悪感を抱いていた層に対しても言い訳を用意することができる。言い訳というクッションによって相性の悪い支持層に摩擦を生じさせること無く人気を拡大できる。


しかし一つの曲の登場によってモーニング娘。像の一致が困難になってしまう。1999年の7枚目シングル『LOVEマシーン』である。
第3期メンバーの後藤真希を加えて発売されたこのシングルは従来の曲調から路線転換したものだったが165万枚という驚異的な売上を記録し、大ブレイクのきっかけとなった。曲そのものに加えて新メンバーのセンセーショナルな髪色も話題をさらった。
だがこの新メンバー加入、さらには路線転換によるヒットによって成長物語としての方向性は失われ、「女性ヴォーカルグループ」だったユニットは「アイドルグループ」として早くも完成形を見てしまう。これにより、アーティストを志向するが結果としてアイドルになっていたはずの彼女たちは、アイドルらしくある為のアイドルとして整形されていくことになる。
アイドルそのものを要求する層にとっては好ましいシフトであったが、楽曲すらもアイドル・ヲタ芸化していってしまった。やがて一般層への訴求力の源である楽曲の力は薄れ始め、グループを構成するメンバーのキャラのみが独り歩きしていく。元来付属的要素であるはずのキャラを前面に出されてもそれに興味のない人はついてこない。やはり楽曲というコンテンツを介さねば一般層には興味すらもたれない。
大きな変化が許されないアイドルグループのなかで物語を維持するというジレンマに対しては、新メンバー加入・卒業・シャッフルという代謝に頼ることで解決を図ったが定められた路線の幅は狭く、人が代わってもやるれることは限られる。逆に、立ち位置やキャラが不鮮明であったり明らかに力量が伴っていないとそれはグループの劣化と認識されてしまう。
一般層との楽曲を介した関係を絶ってしまうことで演者と観衆の箱庭化は免れず、ますます小さな母数で勝負しなければならなくなってしまった。この状態ではこの先、人気が落ちることはあっても回復あるいは拡大は見込めないだろう。


狭く深く売り込む手法が主流になりつつある業界で、はたしてアイドルに興味の無い層を取り込んでいく手法は可能だろうか?

宇多丸曰く、そのヒントはPerfumeにあるという。
「無駄に金のかかった宣伝でもなく、また、ファン限定な目先の小遣い稼ぎでもなく、ただ、ひたすら圧倒的な作品の力が、そして、そこから静かに、しかし着実に拡がっていったリスナーの支持こそが、この類稀なる「いい風」を生み出した源なのだということを、すべてのアイドル産業従事者は肝に命じるべきだと思います。」